台北を回りながら歴史のおさらい


 7月4日の午後、大雨の高知上空は揺れました。東京と台湾の真ん中には鹿児島。東京から沖縄まで飛べば、もう東京より台湾の方が近くなります。


 1.1万年ほど前は大陸と陸続きだった台湾(資料はつくばの地質標本館)。

 その後に島になった台湾には、いくつかの民族が険しい山などに隔てられ生活していましたが、大航海時代の15世紀末から、スペインやオランダがここをアジア交易の拠点の一つにしようとしました。しかし、「拠点にする」ことが「占領する」ことと同義だったこの時代、目をつけられた土地の環境はどんどん変わっていきました。
 先週は共同研究の打ち合わせで台湾に来つつ、この地に詳しい先生と街を回って歴史を再確認できたので、ごく一部の要約を並べておきたいと思います。


 台北の北西に位置する淡水サント・ドミンゴ城、今の紅毛城。台湾に北部から入ったイスパニア(スペイン)が17世紀前半に築いたものです。その後、南部から入って優勢となったオランダがここも占領したので、この城もオランダの拠点になりました。

 同時に、王朝が明から清に変わった中国大陸から、人口増加を避けて漢民族が大量に渡ってきたのも17世紀。彼らが今の台湾のマジョリティです。


 淡水老街(旧市街)から続く遊歩道の先にある、漁人碼頭。淡水川の河口にあり、ここから台湾海峡を挟んで大陸の福州までは200km余りです。


 ここで、台湾に詳しい先生が台北市内の市場で買ってくれていたライチをいただいてきました。解凍品でない、生ライチ。淡水の駅から4kmちょっと走った後でもあり、とても美味でした。

 19世紀に入ると中国が阿片戦争、次いで日清戦争で敗れ、日清戦争後の台湾は日本による占領の時代になります。日本が西洋の列強に対抗するために、帝国として植民地を持つ必要があると考え、アジア大陸に侵出した時代です。その中で台湾では國父と呼ばれる孫文が、日本に抵抗しつつ、合わせて日本統治も受け入れながらと距離感を保ち、台湾を維持発展させた時代でもあります。
 孫文は台湾だけでなく、中国共産党の国でも尊敬されており、優れた思想家・政治家として高く評価されている人物です。


 その孫文が、日本統治時代の台北に滞在した「梅屋敷」のある逸仙公園が、台北車站(中央駅)の近くにあります。梅屋敷の名のとおり、季節になると庭園に梅の花が咲くそうです。屋敷は「國父史蹟紀念館」になっていて、孫文の若き活動家としての姿や、家族との写真など、他で見ない資料が展示されています。

 日本が日中戦争を経ての太平洋戦争で敗れたことにより、1945年から台湾の統治は台湾の人たちの手に戻ることになります。しかしこのとき、中国大陸で国共内戦が勃発。これに敗れた蒋介石率いる国民党が台湾に敗走し、ここをその最後の砦と位置づけました。このとき同時に多数の中国人も台湾に移住しています。


 このときに、南京から台北に運ばれた宝物が展示されているのが、台北國立故宮博物院です。

 台湾が日本統治を離れ祖国復帰「光復」に沸き立ったのも束の間、当時の国民党の杜撰な統治に失望し、タバコ販売の規制取り締まりをきっかけとして、民衆と国民党当局が衝突します。1947年に起こったこれが二二八事件。




 当局による民衆への発砲が始まってしまった場所は台北車站の少し北にあり、今はそこに石碑が置かれています。台北車站の南側、総統府の東隣の公園は今「二二八和平公園」として、負の歴史の記憶が風化しないよう整備されています。


 二二八和平公園。

國父紀念館や二二八和平公園(2016年12月)

 二二八事件の後しばらくの間、台湾では蒋介石・国民党による独裁・恐怖政治が続きました。それが、インフラの整備なども行われた日本統治時代の方がまだ生活をしやすかったという国民感情を招いたのが、今の台湾の親日感情の根にあると言われています。それほどに、戦後の独裁政治の時代の生活が厳しかった。親日感情の根底には戦前の時代への懐古があるので、その感情は戦前から台湾で暮らしていた人と、戦後に大陸から台湾に渡ってきた人とでは違うのだそうです。
 一方で統治する側にとって当時は、国民を抑えつけることでしか国を治められない例が世界各国にあった。蒋介石の統治にしても、そうする以外の方法をなかなか取り得なかった状況もあったのでしょう。


 台北市内、淡水河東岸の迪化街にある、縁結びと家庭円満の霞海城隍廟。

 ロシアや中国と陸続きの朝鮮半島は、分断の時代が20世紀半ばから始まったまま解消していません。島であるもののその大陸から近かった台湾は、朝鮮戦争があったために中国共産党の侵出を免れたものの、大陸の政治の影響をやはり強く受け続けています。蒋介石は、大陸の中国共産党国家に対する世界の主要各国の対応(1970年代にそちらを国家として承認)を読み切れなかった。
 一方の日本は、台湾よりも大陸から離れていたことが大陸の政治の影響を緩衝し続けました。戦後、中国では国共内戦、隣では朝鮮戦争が起こり、欧州ではドイツが分断された中で、当時の米ソによる代理戦争や国の分断が日本で起こらなかったことは幸運としか言いようがありません。

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 先週は共同研究の打ち合わせで、台湾・新竹の清華大学に行ってきました。台北から新竹方面に向かう自動車専用道路は、上下線それぞれが地上と高架の二線になった豪華設計で、


 その高架の高さがまた印象に残りました。写真は両市の間に位置する桃園。


 國立故宮博物院は、材料工学が専門の先生からこれまた多くのことを教えてもらえました。その内容は、とてもここには書き切れません。


 帰りの飛行機は、航空機の不具合があり5時間半遅れでの帰国でした。おかげで台北を回る時間が半日増えて上の梅屋敷などに行けたのですが、羽田に着いたのは結局23時すぎ。それでもこの夜のうちに、ギリギリ終電に乗り込み自宅に戻れたことは、幸運としか言いようのない台北渡航でした。

 

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