北陸新幹線の終着駅になった敦賀はどんなとこ?

 2024年3月16日、琵琶湖の北側にある敦賀にまで、長野・金沢方面からの北陸新幹線が開業しました。この敦賀は、北陸本線湖西線の合流地点だったり、近畿の新快速の北東端だったりしますが、聞いたことがなければなかなか読めないかもしれません。その読みは「つるが」。北陸に西から入るときの、文字通りの玄関口(入り口)に位置する街です。


 日本海側の港が最重要だった時代には、今の敦賀駅よりも海側の港まで路線が伸びており、「金ヶ崎城跡」のすぐ近くに今もその線路が残っています。

 歴史(特に戦国武将)好きには、敦賀よりもこの「金ヶ崎」の地名の方が有名かもしれません。織田信長が越前(福井)の朝倉氏を攻めていた1570年に、同盟を結んでいたはずの浅井氏の裏切りに遭い尾張への撤退を余儀なくされた、金ヶ崎の退き口の場所です。浅井氏の拠点であった小谷は、尾張から越前に入る道の途中の、米原敦賀の間。信長は、先の朝倉氏と過ぎた浅井氏の文字通りの挟み撃ちで “袋の鼠” になってしまったのですが、その場所「金ヶ崎」が敦賀というわけです。


 金ヶ崎城跡の石碑には、金ヶ崎の退き口の他に南北朝時代の争奪戦の歴史も。

 もっとも、この土地は古く日本書紀以前の紀元前か後かという崇神天皇欠史八代の直後の第10代)の時代から、「つるが」と呼ばれていたそうです。その名の由来は、朝鮮からここへの渡来人の名前にあるのだとか。この話は伝承にすぎない可能性があるとはいえ、古くから海の向こうの大陸との行き来があった土地ということは間違いないのでしょう。

 近代に入っても大陸とを繋ぐ交通の重要な拠点として位置し、戦前はこの敦賀から、ロシアのウラジオストクを週3便往復する航路もあったようです。戦前の日欧間の移動には、この航路ができる前はインド洋回りで片道1ヶ月かかっていたのが、ウラジオストク経由で最短17日間に短縮されたのだそう。この敦賀-ウラジオストク経由での飛行機なしでのパリまでの切符が、東京でも買えた時代があったのだと。


 この航路を説明する展示@敦賀鉄道資料館(旧敦賀港駅舎)。このとき「欧亜国際連絡列車」の発着駅として栄えた駅舎が再現されたのだそうです。

 1940年頃には、ドイツを逃れたユダヤ難民が杉原千畝氏(当時は在リトアニアの領事代理)発給のビザを手に、ウラジオストク経由で敦賀から日本に入ったという歴史もあり、人道の港敦賀ムゼウムという資料館を見ることができます。
 今また2022年からロシア上空を旅客機が飛べずに日欧間移動の所要時間が延びてしまっていますが、ロシアを通るのがこの移動に必要だったのは、現在の飛行機の時代だけではなかったんですね。

 そんな国際港のある街に鉄道が整備されたのも早く、ここと長浜(琵琶湖東岸の重要な港町)に向かう鉄道が走り始めたのは1881年敦賀から関ヶ原まで開通したのは1883年)と、新橋-横浜間の鉄道開業(1872年)のわずか10年ほど後のこと。


 こちらは長浜(北陸本線)駅近くにある長浜鉄道スクエアの展示。路線図は右から順に、1882年3月、1883年5月、1884年4月、1889年7月、1900年2月。この資料館のある長浜へは、敦賀から38分ほど(特急しらさぎ号では25分)で、米原からは10分!

 そんな交通の要衝が、今回北陸新幹線の終着に一時的にせよなるわけですね。北陸と近畿の間の行き来は、乗り換えが必要になって特に中規模の町では不便になる面もありそうですが。せっかく地名を聞く機会が増えるわけですし、この町をまた探索してみるのもますます面白そうです。


 敦賀鉄道資料館のすぐ近くには、1905年建造の登録有形文化財敦賀赤レンガキハ28系の保存車両も。ジオラマもありゆっくり楽しめるので是非。