最北端の街・稚内を初訪問

 恐竜の町・鵡川から北上して、着きました初めての稚内


 JRの、昨年行ってきた最東端に続いてこちらが最北端!


 本島の岬は宗谷岬。北を見つめ、ここから樺太を調査した間宮林蔵さんもここに。


 稚内公園の開基百年記念塔の展示室で知れる、間宮林蔵さんの足跡。

 稚内は北緯45.5度ということで、赤道と北極のちょうど真ん中。春分秋分のときには、南中した太陽がちょうど水平方向と天頂の真ん中の位置に来るんですね。

 道央と比べても断然涼しく、朝夕の気温は17℃ほど、昼間も25℃なかったんじゃないかと思います。なので、本州の水族館だと水槽が屋内にしかないアザラシが、開放的に屋外に。


 ノシャップ岬の水族館。アザラシに魚をあげるという他ではできない経験もできました。魚の気配が分かるアザラシの迫力ある姿に、魚を外から狙って飛んでくる突然のカモメの姿にと驚きの連続でした。超おすすめの水族館です。


 涼しいので7月を過ぎてもアジサイの花。南稚内駅近くの線路際。別の時間にはシカが来ていました。
 暑さの厳しい時季はそれが原因で体調崩したりする前に、こういう涼しい場所で仕事などもできるようにすべきだと思ってしまいます。


 こちらも涼しいサロベツ原野。北海道は本当に広い。かつては開拓のための燃料として泥炭の採掘もされたそうで、サロベツ湿原センターに採掘機の保管・展示もされていました。

 20世紀前半の日本では、北海道本島と樺太を結ぶ航路が重要だったわけですが、当初は鉄道が稚内まで来ていなかったために樺太までの航路が小樽から開かれたそうです(420km)。しかし、当然それでは船で行き来する距離が長い上に往来が海の状態に強く影響されるために、稚内まで鉄道が敷かれたのが1921年のこと。


 当時、小樽から稚内までは15時間以上を要したそうです(現在は6時間半ほど)。


 翌1922年には稚内-大泊(コルサコフ)の航路(167km)が開かれました。鉄道も初めは今の南稚内駅までしか来ていなかったのが、稚内駅(元・稚内港駅)、さらに稚内桟橋駅と船の乗降場まで次々と伸ばされたという事実が、かつての活気を感じさせます。


 当時の稚泊連絡船に接続した急行「利尻」の動輪。後ろに見えるのは、駅や桟橋を守った防波堤ドーム。


 めちゃめちゃでかくて広い・・・。


 当時の樺太の地図(こちらも開基百年記念塔にて)。ここが大陸続きでなく島であることを、間宮林蔵さんが確認したのが1809年!(その年代にびっくり。) 伊能忠敬さん然り、誰も分かっていないことを調べる行動と技術の偉大さを思い知らされます。この地図では、日本列島が九州まで右端に小さく描かれているのも面白いです。

 稚内がロシアに近く往来があったことから、街にもロシア語併記の案内がちらほら。


 しかし、コルサコフ(大泊)とを結んでいた航路は2019年から休止されていて、稚内港の国際旅客ターミナルも閉まったままでした。残念なこと。


 宗谷岬のすぐ横には、明治以降の時代に宗谷海峡の監視で使われていたという望楼が遺っています。

 昨年行ってきた根室と合わせて稚内では、江戸末期以来のロシアとの関係を、1945年敗戦直後の混乱も含め理解を改めることができます。第二次大戦から78年が経った今、沖縄や広島・長崎だけでなく、北日本の観点から日本の位置や近代史を理解するのにも訪れるべき場所だと感じました。
 それだけでなく抜海の海岸や、ホタテ産業で有名らしい(と木下斉さんのVoicyでときどき出てくる)猿払、稚内へのJRの特急など今回行けない所もあったので、また必ず来たいと思います。