壬申の乱も関ヶ原から―なぜ同じ場所で戦われたのか

 江戸時代の始まりを決定づけた関ヶ原の戦いがあったのは、1600年(慶長5年)の9月15日(今の暦では10月21日)。私たちは2年前(2021年)の11月に、合戦や陣屋の跡が観光史跡になり始めたこの関ヶ原に行ってきました。


 入りは前泊をした大垣から。大垣は岐阜県(美濃)の内陸の方と京を結んでいた中山道の宿場町で、関ヶ原合戦の直前に石田三成が拠点としていた場所としても有名です。関ヶ原合戦は、西軍が東軍の西進を「防衛ライン」としての大垣で止める籠城戦にもなり得たところが、結果的に西軍が原に出たことで野戦になったんですよね。


 この関ヶ原が何の「関」がある原だったかというと、不破の関。江戸時代が始まるまでは、京を中心とした畿内の東側の防衛ラインが、愛発(敦賀)、鈴鹿、そしてこの不破でした。この不破がなぜ、壬申の乱大海人皇子=後の天武天皇=が攻めの態勢を整えた)、青野原の戦い南朝方の北畠顕家が京に攻め込むのにここを突破できなかったことが、南朝の敗北を決定づけた)、そして関ヶ原合戦のときに登場したのかを、本郷和人さんが考察した本を読みました。

 そもそも不破関などの三関が整備されたのは、壬申の乱で勝利を得てこのラインの重要性を認識した天武天皇自身でしたよ、という話からこの本は解説してくれています。

 南北朝の争いで東からの南朝方・北畠軍を食い止めた北朝方も、源平合戦などで防衛ラインとしてことごとく機能しなかった歴史を持つ瀬田唐橋や宇治川でなく、この関ヶ原(青野原)を防衛ラインにしたことが勝因だったと。関ヶ原は1600年の「天下分け目」で有名になったけど、このときに初めて歴史上の重要地点になったわけでなく、それ以前から重要性がいかに認識されて歴史の舞台のなったかが分かって面白かったです。

 なお、この「北畠軍」を率いたのは北畠顕家で、後に神皇正統記を編纂した北畠親房の子息にあたる人物です。

 しかし南北朝の争いについてもね、承久の変の中心人物だった後鳥羽上皇の、孫である後嵯峨天皇(元々皇位を継ぐはずではなかった)が次の皇位を定めなかったことが、そもそものこの室町時代初期の混乱を招いたとか。一方の室町幕府側も内部対立があったために、敗れた南朝方に利用価値があったためにこれが数十年間存続したりもしたわけだとかね。判断すべき人しっかりせい。

 ところで、この不破(関ヶ原)は敦賀鈴鹿と比べると、前後の地形が険しくない「関」です。東海道新幹線がここを蛇行しながら勾配を行き来はするものの、車で通ると敦賀鈴鹿ほどには勾配が急でないことが分かります。などと思ったところですがそもそも東海道新幹線鈴鹿経由でなく関ヶ原経由になったのも、勾配をゆるく建設できたからでしたっけね。

【東海道新幹線】もしも鈴鹿山脈越えルートだったら

 なお、一方の在来線(JR東海道本線)の方も関ヶ原経由になったのは、先に大垣~関ヶ原~長浜(琵琶湖に面して大津との物流の拠点だった)の中山道沿いに鉄道ができていて、東京と大阪を鉄道で結ぶのにこれを活用することにしたため。

東海道本線の歴史 (Weblio)
●次はこの本を買ったので読みます➡「新幹線はなぜ『そこ』を走っているか?」NHK出版)

 ただし、この東京ー大阪間が “日本の大動脈” になったのは江戸時代になってからのこと。それまで、京の中央官僚の関心は常に、大陸からの文化が入ってくる西でした。彼らの関心の向かない「関東」では、平将門に始まる独立の機運がたびたび高まりましたし、鎌倉幕府もその流れの中でできた政権でした。

 そんな話も本郷和人さん著の『壬申の乱関ヶ原の戦い―なぜ同じ場所で戦われたのか』(祥伝社新書、2018)の面白いところでした。

 今この “関ヶ原古戦場跡” は東海道新幹線から札くらいは見えますが、JRでも高速道路でも大々的には宣伝していないためか、すごく多くの人が集まっているわけではありません。しかし、在来線の関ヶ原駅の前に関ヶ原の資料館が2020年10月にオープンして、良い感じに活気があるように見えました。


 2021年に行ったときは、うちの最年少の人がまだギリギリ自転車の前席に乗れたので、運良くレンタサイクルで回れたのでした。もちろん、小学生の兄は自分で喜んで自転車に乗って。

 そんな風に史跡を自由に回れるのも、手元を平和にできていてこそのこと。今回読んだ本は話題が古代や中世の日本に留まらず、近代以降の現代に平和を守る(防衛する)ために何を忘れずに想像すべきかという問題提起を投げており、歴史からもそれを学べるという気づきを与えてくれました。

 面白かった。オススメです。蛇足ですが、雑誌『歴史街道』の2023年11月号は「新・関ヶ原 天下分け目をめぐる謎」ですね。そちらも合わせて是非。