2020年9月の連休、大井宿を散歩して恵那を出た朝は、明智光秀の生誕地とされる可児に立ち寄って岐阜に向かいました。可児では明智(長山)城跡と、そのすぐ東の公園に今年開催されているNHK『麒麟がくる』の大河ドラマ館に行きたいというのが、これまた8歳の人たっての希望でした。
道中では恵那の明智、可児の明智、岐阜の3つの大河館に寄りましたが、この3つの中では可児の展示が一番良い味を出していたと思います。
明智氏というと、光秀がこの山崎合戦(1582年)で敗れて亡くなった直後に滅亡したため、信長公記や太閤記のような史料が遺っていません。『明智軍記』という書物があるものの、100年ほど後に編纂された創作を多分に含むものとされ、一次史料の評価は受けていないのが事実です。
そのため、光秀というと本能寺の変から山崎合戦の二週間が歴史の転換点としてあまりに有名な一方で、光秀の視点から歴史を眺めるのは容易でありません。
しかし、光秀は文武に通じた紛れもない智将であり、後半生で主君とした信長から要所を任される立場にありました。そのことを、可児の大河館は巧く描いていたように思います。そして、本能寺の変直前一年間の光秀の心境の推移が説の域を出ず「謎」であることも。
ここから美濃金山や犬山に寄り、この夜は岐阜に泊まりました。中津川や恵那から可児~岐阜~大垣と向かうルートは、瑞浪~土岐から春日井(~名古屋)に向かう今の中央道や国道19号と違い、昔の中山道に沿った道です。
今とは違う交通網で賑わった街の数々に想いを馳せつつ到着したのは、金の信長像がある岐阜駅前。
小さい人たちは光に飾られた噴水に大喜びでした。
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翌朝には岐阜から電車で15分足らずで行ける、大垣にも行きました。大垣は、大学生の頃に乗換階段の場所まで覚えるほど何回も来てた所ですが、歩いて回ったことはまたなかった街です。
駅から少し歩くと着く大垣城。ここは関ヶ原まで15kmほど(JR東海道線だと2駅)なので、1600年の関ヶ原合戦の展示が多くあります。
・・・と言いたくなるところですが展示の理由はそうでなく、そもそも石田三成が決戦の場所を直前に大垣城から関ヶ原での野戦へと変えただけで(しかも、それは野戦を得意とした家康の謀略に乗ってしまった形で)、そもそもあの合戦の最終決戦地は大垣城となる予定だったのだそうです。そうだったのか。
大垣から西、山合いに開けた場所が関ヶ原。
その大垣城の展示では、三成をただ敗者として描くのでなく、三成側(西軍)と家康側(東軍)の思惑や三成の誤算などがよく解説されていました。光秀にしても三成としても、歴史の中では決戦に敗れたことが強調されてしまいますが、どちらも有能で然るべき役職にもついていたのです。そうでないと、そもそも決戦を指揮する場にも立たなかったわけで。
可児での光秀、大垣での三成の描写はどちらも、そのことが分かる展示がされていて面白いものでした。こんなことは義務教育課程や高校の日本史でも教わらなかったな、と思いながら。
「決戦の勝敗がどうだったか」でなく、「決戦の敗者が『有能だったが』なぜ敗れたのか」の方を、人は歴史から学べるといいと思うのですけれど。
●大垣城(大垣観光協会)
以上の展示がある天守は当時のものが昭和初期まで残っていたものの、1945年の戦災で焼失してしまい、戦後に復元されたものなのだそうです。
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大垣からは午前中のうちに岐阜に戻り、この旅の最後に金華山の岐阜城に登りました。
「斎藤道三時代の石垣を見たい」という8歳の人のリクエストで、ロープウェイに乗らず私は2歳の人を抱えて登山をしたわけですが。登山道の地質がまた面白いものでした。
北斜面に現れる硬い層状の地質は「チャート」。ガラス質の殻を持つプランクトン「放散虫」の遺骸が深海底に堆積してできたものです。しかも金華山のそれは、古生代ペルム紀末期(約2.5億年前)の生物大量絶滅の時代に赤道付近でできたものが、プレートの移動で北上してきたものなのだとか。本当ですか。
中津川・苗木の鉱物や巨石から始まりこの金華山の面白い地層を踏みしめるところまで、岐阜を満喫できました。
岐阜城まで登って町に下りたらもう16時。新東名は足柄あたりの渋滞が酷いという情報を手にしていたので、9月の連休最終日でしたがここからのんびり帰りました。小さい人たちには移動しながら寝てもらいつつ。
次の旅でも、教科書には書かれていない面白いものを探したいものだと思います。
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PS. 教科書には書いていなくても、オンライン記事には出てきます。「金華山の大部分はチャートという硬い岩石」と。
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PS. 2020年10月11日放送に描かれたこの場面は、歴史の結果を知ってしまっている者としては切ないですね。
「本能寺の変を起こす動機は、室町幕府再興のためという路線で描かれるのか」という視聴者の感想はなるほど。盛者必衰の言葉では片付けられない、時代の変化の中で生きる人たちが「何を見て判断していたのか」を考えさせられます。
もしかして、信長が後に「光秀が平定した丹波を召し上げ、代わりに毛利氏のいた中国地方を与える」とした話も、義昭が西国に移っていた文脈で語られることに? それはないか。
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こちらには岐阜城下の立政寺や、若狭街道の金ヶ崎(敦賀)との縁についても。
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光秀が主役張る大河だから秀吉がヒールになるのは必然で、そのためには明るさ全開の中に老獪さやダークな一面を仄めかせる芝居をしないといけない、ゆえの蔵之介さんキャスティングに全納得
— ふう次郎 (@fu_jirow) October 11, 2020
ちょい怖いもん既に#麒麟がくる pic.twitter.com/fPrc2Y9N2w
2020年10月末追記: 山崎合戦については最近こんな解説記事も。これに至る秀吉の中国大返しと、可能にした秀吉の準備についての考察が面白いです。 (※科学「が立証」でなく「から検証」が正しい表現かとは思いますが。)
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2020年11月3日: 岐阜城下の大河館は今日も駐車場が大混雑だったらしい。駅からバスでのアクセスがオススメです。
現在、岐阜公園堤外第一、第二駐車場、鏡岩緑地、 臨時駐車場は満車となっております。しばらく満車の状況が続くと思われますので、ご不便をおかけしますが、岐阜駅周辺や柳ケ瀬周辺の民間駐車場のご利用、公共交通機関でご来場ください。https://t.co/cjS1ABOUvb
— 麒麟がくる 岐阜 大河ドラマ館 (@kiringifu) 2020年11月3日