敗者の儚さの歴史を見せる一乗谷と北ノ庄(福井)


 先週は郡上八幡(岐阜)から油坂峠を越えて、福井県に入りました。
この福井の市街に着く前に、九頭竜川沿いを下りていく道中で越前大野に着きます。町中の丘(亀山)に立つ越前大野城に、4年ぶりに立ち寄りました。野面積みの石垣の上の天守に向かう、これまた急な「武者登り」は健在です。


 1575年に越前の一向一揆を収めた織田信長が、美濃・越前国境の要として金森長近(後の飛騨高山藩初代藩主)を大野に置いたのが、この町の整備の始まりとされています。

 この長近も、織田信忠と共にいた長男を本能寺の変で二条城にて亡くしたり、賤ヶ岳の戦い前田利家とともに秀吉陣営に転じたり、富山の役(越中佐々成政と飛騨の姉小路氏が攻められた)で活躍して飛騨を収めることになったり(このときすでに61歳!)、そのさらに15年後の関ヶ原合戦にも参加したりと戦国時代の中心を駆け抜けた人物。戦場に身を置きながら長生きする人もいたものなんですね・・・。

 この天下統一に向けた動きの影響をより鮮明に記録した史跡は、福井市内の方で見られます。まずは福井市街から10kmほど南東に位置する一乗谷。越前の戦国大名であった朝倉義景が足利将軍も迎えたこともある町で、今は発掘調査をしながら一乗谷朝倉氏遺跡として公開されています。


 山合いの谷にあったという朝倉氏の郷には、


 土塁に囲まれた屋敷跡に、


 庭園の跡。まさに「遺跡」。それに復原された町並みの外れにある「朝倉夢舞台」とか、


 雰囲気が栄華とその後の滅亡で遺跡化した儚さそのもの、という哀愁を感じさせます。

 朝倉義景は越前朝倉氏の11代目の当主でしたが、いくつかの逸機や失策を重ねた上で離れていった近臣も増えてしまったという記録があります。最後は信長勢から敗走してきたところを、越前大野に居を構えていた朝倉景鏡に大野で再起を諮ろうという呼び寄せられた上で襲撃されています。


 なので、義景の墓所一乗谷だけでなく越前大野にも遺されているんですね。

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 谷から下りた福井市街にある県庁の敷地内には、江戸時代初期からの井戸「福の井」が今も遺されています。今の「福井」の地名の由来とされる史跡です。

 ここの地名が「福井」になったのは江戸時代、つまり1600年を過ぎてから。それより以前の町と城郭は、織田信長の勢力が朝倉氏を破った後の越前に入った柴田勝家が1575年に、今の福井県庁のすぐ南側に整備したのだそうです。


 北ノ庄城の位置を示す位置には、柴田勝家像や展示館があります。勝家は若い頃から信長の有力な家臣として、この越前で上杉謙信の動きを押さえるなど大活躍をしたものの、本能寺の変後に秀吉との争いに敗れてしまいました。江戸時代に入ってからは、家康の三男で二代将軍・秀忠の弟である結城秀康が入って福井城を整備しましたが、今でも福井の町の基礎をつくった人物として柴田勝家の名前が記録されているのです。

 しかし、北ノ庄ってもっと郊外にあるのかと勝手にイメージしていて、こんなに福井市街のど真ん中だったなんて知りませんでしたよ。敗者の名前が嫌だからって名前を変えちゃった秀康ひどい(笑。地名を変えた理由はそれだけではないのだろうと思いますが)。


 結城時代以降の福井城跡の水堀の中に、今の福井県庁舎があります。


 県庁舎のすぐ脇にある福井城の天守台跡。1948年の福井地震で傷んだ地震の大きさを遺しています。写真以上に実物で感じるのは凄まじい曲がりっぷりで・・・。


 こちらは柴田勝家の甥で養子である勝豊が、北ノ庄の北に数kmの位置に築いた丸岡城


 現存天守に葺かれた、淡い緑色の笏谷石の瓦が立派で重厚ながら、文字通り重そうです。

 蛇足ですが、江戸時代に入って初代の丸岡藩主としてここに入った本多成重の父の墓所は、茨城の取手・青柳本願寺にあるそうで。日本一短い手紙「一筆申す 火の用心 お仙痩さすな 馬肥やせ かしく」を書いた人物です。茨城に戻ったら、現地にも何かしら記録があるのか確認してみようと思います。

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 PS. 戦国時代の天下再統一に向けた動きの中で山城が多く築かれた姿は、尾張信濃を繋ぐ木曽川沿いにも。