8月中旬は「越前」福井の恐竜王国や城めぐりをした後、「越中」五箇山から富山に寄ってお盆の長野(信濃)に向かいました。五箇山は一昨年の夏にも来ていたのですが、6歳の人が「またあの三角お屋根に行きたい」というので一泊予約して立ち寄ったのでした。4歳のときの記憶でまた合掌造り集落に行きたいとはシブイ!
と思っていましたが、いざ福井を出ると「また恐竜の勝山に戻りたい」とボヤいていたので、それなり、・・・というより何と素直な発言だろうと思いましたが。
五箇山・荒尾の岩瀬家。五箇山の中でも奥に位置する立派な合掌造り。高速のインターが近くにできたので、地図を知らないと「奥」という感じではなくなりましたが。
屋根をつくる萱はマンサクの茎。
中に立つ黒く硬い木材はケヤキで、その柱は一本3000万円。その一本の価格で普通の家が一件建てられるほどのものなのだそうです。
囲炉裏を炊いて出る煙は、害虫が住みつくのを抑える効果もあるのでしょう。
書院造りの間がとられているのは、大名がここを見に来て宿泊することがあったからなのだそう。というのも、ここでは1700年台の加賀藩(前田)の時代から、養蚕から出る糞を使って良質な火薬の原料となる「塩硝」が作られていたのです。金沢からも峠越えで特に冬には閉ざされたこの僻地は、軍備に有用な物を秘匿しながら生産するのに適していたそうです。
岩瀬家のある荒尾から、高速のインターをはさんですぐの所にある菅沼の集落。ここには塩硝づくりを解説する塩硝の館があります。要は床下に穴を掘って土、草、稗殻、蚕の糞を入れて仕込み、水を通して得られる浸出液を煮込むと硝酸カリウム(塩硝)の結晶が得られるとのこと。これに硫黄と木炭を加えて黒色火薬を作っていたのだそうです。
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五箇山のある富山県の地図を見ていたら、6歳の人が「富山城の公園に行ってみたい」というので、北陸道をいったん富山インターで下りて行ってみました。北陸が豪雨と雷の日でしたが、富山城に着いたときだけ雨が止んでいてセーフ。
富山に江戸時代からの城はないんだよなぁと思いながら向かいましたが、城址公園にできている富山の郷土資料館が思いのほか面白いところでした。
この地域は、戦国時代の始まりとなった応仁の乱でそれまで治めていた畠山氏の力が落ちて、三氏の守護代に勢力が分かれます。その小競り合いは周囲にも鬱陶しかったのでしょう。周りの勢力がそこに介入する事態も招いてしまいつつ、一向一揆の勢力を抑えた後に前田氏の入った加賀がこの地域の中心になります。
応仁の乱が起こった1467年から170年後の富山藩の成立も、加賀藩の前田家から分家という形で行われることになり、中心となった富山城に天守も隅櫓もなかったとのこと。この歴史がもし違ったものであったら、今と違っていたかもしれない北陸の中での富山と金沢の位置づけに想いを馳せずにはいられません。
藩の財政が豊かでなかったために、そのぶん産業育成が大事とされ、「富山の薬売り」と言われるように製薬業が盛んになりもしたのですけれど。
この富山の町は、1899年の大火、次いで太平洋戦争末期の1945年8月2日の空襲で壊滅させられた後、戦後の復興の中で三重四階の天守が立てられたのだそうです。そうして、現代の歴史の中で地域の人を勇気づけたという城の存在もいいものだと思います。
白エビの天ぷらが美味しかった! 北陸道の有磯海SA。日本海を見ながら、そして0歳の人のおむつを替えながら、上越経由で長野に向かう旅でした。
+++旅程+++
五箇山
↓ 25分
砺波小矢部
↓ 25分(豪雨)
富山 ⇔(片道20分)⇔富山城址公園
↓ 25分
有磯海(魚津)
↓ 25分
親不知
↓ 40分
上越
↓ 60分
長野 ・・・
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●3年前にも来ていました⇒高岡から五箇山へ(2015年8月)
●福井・勝山の「恐竜王国」
●越前・福井の城めぐり(越前大野城、丸岡城)
●火薬の村・五箇山から薬の町・富山
●盆のお寺にナツズイセン~諏訪高島城