「ほとんど」という言葉の無意味

 「ほとんど~ない。」 この言葉ほど、日常生活と研究生活とで意味合いの違うものはないかなぁ、と思います。(*1)

 「○○○についてはほとんど知られていないので、○○○を~~~することを目的として研究を進めます」と言われると・・・

 いや、○○○について既知のこともあるわけでしょ。○○○のうち、どこまでが明らかになっていてどこからが分かっていないから、その分かっていないもののうちの◎◎◎を研究対象にする。そう言ってもらえないと、研究計画の価値なんてさっぱり分からんのですよ。
 ・・・と思ってしまいます。

 「☆☆☆と★★★の差はほとんどないので、★★★を☆☆☆の代わりに使うことにはほとんど問題がないのです」と言われると・・・

 いや、ほとんどないってことは、裏を返したら☆☆☆と★★★との間に何かしら差があるってことでしょ。どんなことには差があって、少なくとも何については差がないのか。それを言ってくれないと、☆☆☆の代わりに★★★なんて怖くて使えませんよ。
 ・・・と思ってしまいます。

 これは「差があったら同じとは見なせない」という意味ではありません。ただし、そこに “わずか” に存在する差が「問題ないかどうか」は、“貴方”(話し手)が決めることではないのです。その情報や技術を使う側が、ケース・バイ・ケースで価値判断する必要があるものです。
 何かしらの違いが「ほとんどない」、つまり「少なくともある」と言わざるを得ないのなら、「何については差がない」とある程度以上のライン引きをしてくれないと、聞き手の判断基準の材料にはなり得ないのですよ。
 ・・・と思ってしまうのです。

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 私自身、失敗がないわけではありません。講演の中で「ほとんど」と言ってしまい、「あっ」と思い直して数値の情報を付け加えることがあります。自戒を込めて、このエントリを書いています。

 「ほとんど」という言葉は、わずかにあるものを「ある」と『捉えて』いるのか、「ない」と『捉えて』いるのか… その話し手の気持ちだけは如実に伝えます。
 しかし、何かを判断するときにそこに「気持ち」の要素を入れるべきでないとき、この言葉はまったく意味を持ち得ません。(話し手の言葉の信憑性が損なわれる、という意味は持つ可能性がありますが。)

 ほとんどない vs 少しはある。

 この「ない」と「ある」の率(量)をどう捉えて、解釈や次に取る一手をどう判断していくのか。「ほとんど」という言葉でなく、率を示した上で状況判断をしっかりできるようでないと。少なくとも、データを大切に扱うべき仕事をする限りは、そうでなくてはならないと常々思います。

 週が明けたら私はまた、日々手にするデータとにらめっこです。

 (*1)後日追記: 「とても」「非常に」という言葉についても同じです。

卒業論文(学位論文)の書き方‐何を言いたい論文、何を言えるデータなのか。「卒業論文」と書いてありますが、外に出す学術論文であっても同じことです。
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