私はいわゆる「講義」という形で何かを解説したり、意見交換をしたりすることが多いです。大学院生時代からの指導教授のご配慮もあり、想定より早くに学外でのその機会を、多くいただいたとも思っています。
昨日は中央区立環境情報センター(東京)で、「現代の大気汚染の状況と対策」という主題での講義を担当しました。これまで経験した類似のテーマの講義以上に、「状況と対策に重きを置いて」というリクエストに応えての2時間でした。
講義を何度経験しても難しく、でも意識を外したくないと思うのは、目の前の人たちと関心を共有することと、共有できているかを厳しめに捉えるということ。
そして、必ず共有したいと思うこと、次にその人各々がご自身の言葉で表してもらえるくらいに理解してほしいことを、しっかりと話し切ることです。それが、「準備したことすべてを話す」ことよりも重要だと思っています。
聴講者の表情を見て(あ、今の言葉は共有できていない…)と思ったときに、あるときはその内容をカットすること。逆に、それがコア・メッセージにつながることであれば繰り返し、もしくは言い方を変えたり例を挙げたりして表現すること。
そのアドリブとも言われるプロセスには、とことん拘れるようでありたいと思っています。そしてそれは、準備したことをすべて話し切ることや、話すことを前もって全部準備すること以上に、凡人の私には難しいときもありますが、大切にしていることでもあります。
よく「正確さと分かりやすさは逆相関」などと言いますが、講義アンケートで「分かりやすさ」は問われても「正確さ」を問われることはありません。というより、講義のその場で「正確さ」を評価するのは無理だろうと思いますが。正確かどうか聴講者がその場で判る内容だけ、講義したって意味ないですもんね。
だからこそ、講師は次の3つをハッキリと分けて表現できなくてはいけないと思っています。
①どこまでは明確に分かっている(と言える)のか
そう言うなら根拠も(少なくとも訊かれたら答えられるように)!
②どの程度は推定でも確からしいと言えるのか
同時にどのように検討や解釈の余地があるのか!
③何がいま不明で未解決なのか
世の中に未解明の真理が無限にある中で、何が問題解決の障害になっているのか
そしてどんな場面でも、①②をただ並べるのでなく、③の意識を目の前の人と共有し、そこの議論をこそできるようでありたいと思っています。それが、聴きに来てくれた人の次の一歩を、微力でも支えることになると思うので。その一歩を試し続けることが、新しい価値を作っていくことになると思うので。
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いつぞや敬愛する友人(失礼…先輩であり、先生です)に言われた「大事だと思うことがあるなら、それは言わなくちゃ(研究者として)ダメだよ」という言葉。今それを「言えなくちゃ」に置き換えて、伝えられる言葉を持てる者でありたいと思います。
現代の環境と健康の問題は、「○○があると数十%以上の人が○○という病気になる」というような現象を扱っていません。大気環境で言えば、ある要因と公害との因果のように、いま単純な事例はおそらくありません。
そんな中で、局在するリスクや高感受性集団に私たちはどう対応できるのか。建設的な議論を促すロジックは、○十年前とは全然違うのです。そんな今、皆さんは大気環境の問題をどう考えますか?
そんなことをお話ししてきました。
事実を並べることでなく、いま存在する「違い」を語れるようでありたいと思います。その違いによる障壁を越えることが、時代の針を進めると言えるのだろうか、などとぼんやり考えつつ。
会場は、京橋の東京ガーデンスクエアでした。温かく迎えてもらいました。