大学院のゼミでは、学生が自身の研究の進捗を説明したり、他の論文を紹介したりということを行っているラボが多いと思います。
っていうと、「お、説明すればいいのか」「紹介すればいいのか」と思う人もいないではないようなのですが、それだけでは物足りないと私は考えます。「なぜ、それだけじゃ物足りないと私が考えるのか」について、今日は書いてみたいと思います。
例えば、論文にある英文を直訳っぽく訳して、日本語として聞いたことのないような文章にして「確認してくださいっ」持ってくる人がいるのですが。しかも、本人が精通している(はずの)分野にも関わらず。
資料って、「自分が(そのとき)“正しい”と思った文」でなく、「相手が分かる文」で作らないと意味がないのですよ。
どうなんでしょう。
もし、「まだ大学院生なんだから、その辺りは逐一確認して丁寧に教えてほしい」と二十歳を過ぎた学生さんが言うのなら。私ははっきりとこう言いたい。
それを求められる身分になってからできるようにする、というチャンスはないのだよ、と。できるようになって初めて、それを担える仕事のチャンスが来るのだよ、と。
こちらの本にも、そういった趣旨のことが書いてありました。なるほどと思わされるものでした。
●身につけたいリーダーシップと大学院教育@『採用基準』
重要なのは、文書全体に統一感を持たせたり、ケアレスミスを自分で短時間で発見・修正できること。そして、単に「自分が “正しい” とそのとき思った文」でなく、「相手に分かる文・資料」を作れるようになること。ここなのです。
もちろん、記載内容が正確であることは大前提です。が、いくら内容が正しくたって、読み手が見て分からない書類は読み手には見てもらうことすらないのですよ。
こちらもよろしければ参考に。↓
●論文紹介と研究報告のポイント(2013夏)
●研究背景の棒読みがNGなわけ(2013秋)
なお、ここに書いた内容はずいぶん前から “温めて” いたものなので、うちの最近のゼミで何かがあったというわけではないです。念のため。