ここは泣くところじゃない、笑うところだ

 何にどれだけ成功しようとも、結局はどれだけ人を笑わせたかだよね、と思うことが度々あります。人を笑わせたときのことは、いくつも記憶に残るものですし、何をしていても、人を笑わせる楽しさは他に換え難いものだと思うのです。

 笑う場面にも、いくつか種類があるでしょう。
 その場の面白さや喜びを得たとき、素敵なものを見たとき、成功の喜びを得たとき、苦笑い、くすぐったいときの笑い、箸が転がったとき、へそで茶が沸いたとき。

 いろいろありますが、いつも“次にもっと大笑いをさせたい”という一見単純な基準で行動を選んでいくのは、アリなのではないかと思うのです。

+++

 この気持ちは、子どもを授かって以降なお大きくなりました。例えば子どもは夜寝かしつけようとすると、泣き出すこともしばしばです。そんなとき、お気に入りのテレビ番組を見続けていた方が、その場は笑っていられるかもしれません。
 しかし、その時間が長過ぎると、翌日はまったく笑えないという事態になりかねません。明日も笑って過ごせるように、親は子どもを寝かしつけるとも言えるのです。
 (なお、今夜の1歳児は寝室で散々はしゃぎ回った末に、はしゃいでいる最中に布団から落ちる格好で眠りにつきました。)

 大学での仕事もそうです。
 ある問題を解決したいと学生から相談されたとき、そのときに私が答えを言った方が、見かけの解決は速いかもしれません。
 しかし、私は基本的にそうはしません。解決方法の例だけ伝えたり、もしくは方向性と注意点だけ示してあとは学生本人に任せたり。一方で、私が答えを言うという判断をする場面についても以前(→こちら)に書きました。

 そんなときに私が考えるのは、この人は、どのタイミングで一番笑いたいのだろうということ。それを想像することは、けっこう楽しかったりもします。
 もちろん、いつも笑いたいという気持ちも大切なのですが。それでもやっぱり、人それぞれの「一番」はあっていいと思うのです。

 ⇒人それぞれのライン(2012年3月23日)

 大学で研究に取り組む心持ちとして、「覚悟をもって挑む」という言葉を私はしばしば使います。しかし同時に、私はその覚悟を捨てるときのことについても、考えることがよくあります。
 昨年、助教に着任する日のエントリにも少し書きました。私は研究員になったとき、大学教員になったときから、私はそれを終える(べき)ときのことを意識するようにしています。

 それは、私が研究をするのであれば、笑って走れる研究者でありたいから。

 あなたはご自身の仕事を、どのようなスタンスやこだわりをもってやりたいと考えていますか?

 私は将来、「人生は、笑うところだ!」という想いを共有できる職場を作りたいと思っています。・・・チャンスがあれば、ですけどね。