子どもの将来を想像して仕事を

随分前 大学生の頃かな
レストランで席が近くなった親子
スケッチブックを持参している小さな子ども
昔の私みたいで気になって仕方ない

その子が 「絵描きさんになる!」と言う
お父さんが「食べていけないから止めときなさい」と言う
その頃 絵描きさんをまだ目指してなかったはずだけれど
何故か 悔しくて悔しくて


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 文章は、亜由子さんの昨日のブログ『タイムスリップ』から。私も抱いたことのある、(恐縮ながら、おそらく)まったく同じ気持ちを書いてくれているものです。そんな文章に出会ったと感じるのは、とても久しぶりのこと。
 私自身も感じたことがあるのに、それを表現できたのが私でないことは、これまた悔しいこと。しかし、表現してくれたのが、自身の力で勝負する亜由子さんであったということで、よかったです。

 どんな仕事でも、誰にでもそれができるわけではありません。誰もがそれに向いているわけでもありません。
 それでも、研究で世界に働きかけていきたい、と思った人が、子どもが、後輩が。彼らが力を発揮できる場に、今の「研究」の仕事場がなっているのか、いないのか。そう考えて、悩んだことが、これまで何度あったでしょうか。

 その仕事場にどんなに問題が山積みでも、その問題も含めて受け止めるのが能力と言われても。問題があると分かるのなら、少しでもそれを解決する方に力を使いたい。私が研究と向き合う過程で、自分もそこに少しは貢献できるかも。
 そう思えた瞬間は今でも、私の仕事=研究・大学教員職に対する考えを大きく変えた経験の一つになっています。

 今の仕事をしている限り、目の前のタスクだけでなく、そこにある構造的な問題とも向き合っていたいと。そして、ただ向き合うだけでなく、それを解決するための「実際的な」手段を、できるだけ多く示せるようでありたいと思うところです。

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 亜由子さんは、ご自身のお仕事と向き合う覚悟を「誠実であること」と表現されます。私には似合わない、素晴らしい言葉。
 たとえ、私がその言葉を口に出せなくても。努力を成果にし、成果を形にする仕事をしている者として、「実」にはこだわっていきたいものです。

 今とは環境もニーズもまったく異なる●十年後に、存在できる仕事って何なのか。

 次の時代に、どういう仕事を自分が選択肢として示すことができるのか。これからの子どもが将来を思い描くときに、自分は何をできるのか。それとも何もできないのか、何もできなくても構わないのか。
 いや、自分が何かできるようになるために・・・

―― お仕事の中で出会うあらゆること
そういうものなんだでなく
どうしてそういうものなのか
突き詰めて理解したい ――


そういうこと。