「博士」のあなたはどのニーズに応えたいのか

 私がブログで何度か取り上げている「博士に何ができるのか」という話題について、今日は久しぶりに書きます。「視野が狭く、応用が利かず、基礎知識も欠如している博士」とも言われることもある現状に対して、逆に「博士」はいったい何に応えられるだろうかという話です。

 まずは、これを書こうと思う動機になったブログ記事として今日見つけたものを、一つ紹介します。“使い勝手の良くない”博士の問題について書かれたものです。

途中下車する人たち(Chikirinの日記、2006年5月8日)
 ここには、オーバードクター問題についてのちきりんさんの考察が書かれています。このような記事を読むたびに、私は「研究者」の視野がこんなに狭い(と思われている)ままで良いのかという危機感を強く持ちます。そして私のこの危機感は、少なからず現実であることを、とくに若手研究者や大学院生は意識から外してほしくないと思っています。上の記事は6年近く前に書かれたものですが、状況は今も大きくは変わっていないことでしょう。

 日本の「博士」の問題を取り上げるときに、他国の博士と比べることもよくなされます。ちきりんさんのブログでも、次の記事がその内容のものでした。

他国の博士は?(Chikirinの日記、2006年5月9日)
 博士号取得者の多い米国では、博士の「需要があるからこそ、供給が可能」になっているのは重要なことです。逆に、博士(研究者)として真理の追究をしたいという強い気持ちを持つ者でも、それに加えて「自分が博士としてどのようなニーズに応えたいのか/どのような活躍をしたいのか」という動機がなければ、「あなた要りませんよ」と言われるのは当然なのです。
 逆に、人(雇用者)や社会のニーズを気にせずに好きなことだけをしたい人は、自分で必要なもの(主に資金でしょうか)の調達方法をよく考えましょうということです。なお、私が米国で話したことのある「本当に好きな研究だけをやっている!」という感じの研究者の一人は、自身の資金には困ることのないであろう資産家でした。


 さて、私はこれまでに、いくつかの「博士のキャリアを考えるイベント」に参加してきました。そのような場で博士のキャリア問題を論じるときには、次の問いに対する参加者の答えを整理して進める必要があると思います。その問いは、繰り返しになりますが「博士として結局自分がどのようなニーズに応えたいのか」というものです。
 しかし、「その場にいる人(若手研究者や大学院生)が結局、実際に何をどうしたいのか」を整理し、「その実現のためにはどのような方法を取れるか」を議論していた場は、ほとんどなかったと思います。私がたまたまそういう機会に恵まれなかったのか、それともそういう場自体がほとんどないのか。もしくは、「何をどうしたいのか」に対する答えを持っている人が多くはないのか・・・。

 現実が一つ目であれば悪くはないですが、おそらくそうではないと私は思っています。博士(の多くの人)やその学位を目指す学生にはもっと視野を広く持ってほしいですし、私もそうしなくてはいけないといつも思います。

+++

 以下は蛇足ですが、上に紹介した記事「他国の博士は?」の最後の方には次の言葉があります。

 「この国はどういう国になっていくのか。それを示す人が、どの分野にもあまりにも少ない。」

 これは、昨日ここに書いた「いま求められるリーダシップ」ともつながることです。日本という国が先進国として運営されるためには、この課題は乗り越えなくてはならないものであるのではないでしょうか。

 また、これも別の話ではありますが、「研究をするのは研究者(職)だ」と多くの人が思っているであろうことも、私が疑問に感じていることの一つです。研究者(職)の人が研究をするのは当然ですが、研究をする人や、研究を進める(もっと言えば、研究成果を活かす)ために必要な人は研究者だけではありません。これは、ある程度の研究室、研究所にいた経験のある人には理解してもらえると思います。
 少なくとも、私が将来持ちたいと思っている研究所(室)に必要となるのは、研究者だけでも、ましてや「実験をしっかりこなせる人」だけでもありません(※)。そのときにはいろいろな所から、私と目的を共有できる様々な専門家を見つけたいと思っています。これについては、また機を見て書いてみたいと思います。
 (※ もちろん、実験をしっかりとこなせる人もとても重要です。)