結局は「やるかどうか」

 私はここ1、2年ほどで、理屈よりも実践が大切という気持ちが強くなりました。
 いくら机上で理屈を並べても、それでは考慮すべき要素の漏れから逃れられません。なので、実践を重ねて帰納して得た理屈をこそ、見ていきたいと強く思うようになったのです。

 理屈というより、理論という方が正しいでしょうか。
 理論を導く上では、話し合いも有効なプロセスです。それは言うまでもなく、自分だけでは気づかない視点や考えを、理論に反映させることができるからです。

 実際に私は、話し合いが大好きです。しかし、話し合い無しでできることまで話し合いたい、という気持ちはまったくありません。話し合いは、あくまで実践方法を最適化するための手段。そういうスタンス、その距離感を、忘れずに持っておきたい思うところです。

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 今日ここに書いておきたいこと。それは、理屈を並べたり話し合いをしたりすることよりも、結局は「やるかどうか」が大切なんじゃないか、ということです。つまりは、実践をすることが大切ということ。
 理屈・理論や話し合い、人との情報交換が大切ではない、という意味ではありません。それらと実践とのバランスが大切なのです。

 少し話は変わりますが、何かをしたいと思ってる(けどしてない)とか、何かをしなければと思っている(けどできていない)とか、~~れば対応する(けど自分からはしない)とかいうお話に、私は基本的に興味を持てません。実践に至っていない話を聞いても、「ま、やってみないと分からないよね」くらいにしか思えないのです。
 逆に、今何をしていてどういう状況なのか、もしくは、いつ何をどうするのか。これについての具体的で自発的な話にこそ、私が強く興味を惹かれます。

 言い換えると、いくら「○○が大切だよね」と言ってもそれが実践・行動に反映されていなければ、その大切にする気持ちが結果に反映されることはありません。そう思うので、例えば仕事のパートナーを選ぶときにも、言葉面に騙されちゃいけない、行動を見ないと、と思います。
 そうして仕事仲間を得た先に――

 とにかく動いて、感じて、考えて、また動いた数だけ、その先にチャンスがあると思います。そう、だからやっぱり結局は「やるかどうか」。
 それも、次を変えていくのは「これまでやってきたかどうか」ではなく、「次にやるかどうか」であるということ。次の結果・成果は、次にやることからしか生み出されないわけですから。

 さて、明日は何をしようか。

議論は目的ではなく手段