無知であることを恥じる必要はないんです

 「~~~を知っていますか?」
 「~~~について教えてもらえませんか?」

 そう尋ねられて、つい、

 「あぁ、それは***ですよ。」

と見栄を張ってしまったことはありませんか? 多くの人が経験したことがあるかもしれません。もちろん、私自身にもないわけではありません。

 でも、それはあまり良くない後味が残りますし、自分にとって得にならないと感じている人も多いのではないでしょうか。
 もっと言えば、人と話をしたり議論をしたりする上で、知らないことを知らないと断るのは大切なことですし、それを言えることは実際にすごく得なのではないかと、私は思うのです。

 このことを話題にあげるときに、私はいつも頭に一人の先生が思い浮かびます。名古屋大学で活躍していらっしゃる、辻信一先生です。

 私はこの先生の講義を昨年5月に聞き、それ以来何度かお会いする機会を頂いています。先生の講義を初めて聞いたときに、その言葉から大きな説得力を感じたのが印象的でした。しかも、先生が比較的淡々と言葉を並べる方であるのにそう感じさせられたのが、私にとって非常にインパクトのあることでした。

 私は、そのときのことを次のように書いています。(当時のエントリは→こちら。下の引用は一部改。)


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 私がこれほどまでに、(この分野で)講演者の考え方をもっと知りたいと思ったのは、初めてのことでした。先生の言葉は、質疑応答まで含めてとても説得力のあるものだったのです。

 私がそのような感想を抱いた理由は、辻先生が、

・現在何が分かっていて何が分かっていないのか
・いま我々には何ができて何はできないのか

ということを不明瞭にせずにお話ししてくださったからでした。ある問題や課題を解決しようと思ったら、“ここに問題がある! ある!!” と主張するのではなく、“どこまでは解決されている/もしくはできそうで、未解決の課題はどこにあるのか” をフェアに評価できることが一番重要である。私はこの先生のお話を聞いて、改めてそう思ったのです。

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 私の同僚(学生たち)は私のことを、知らないことを知らないと言ってくれるのでありがたいと言ってくれます。それは、私にとってもとてもありがたいことです。

 しかし、私は少なくとも最近4年間、研究のプロとして仕事をさせて頂いています。ここで強調したいのは、研究は未知のある部分を既知に変えていく仕事であるということです。
 そのため、「どこまでが既知でどこからが未知なのかを認識できないこと」、もしくは「それを認識していながら、そのラインをごまかしてしまうこと」・・・これを研究者やそれを志す人がしてしまったら、それだけでほぼ完全にアウトだとすら私は思うのです。

 もちろん、研究や学術でいう既知/未知のライン引きの問題と、自分自身の既知/未知を分けられるかという問題は、スケールの違う話ではあります。
 しかし、自分自身のことについて嘘なくそのライン引きをできない人が、より大きなスケールでの既知/未知の問題を扱っていたとしたら。そのような人を相手に議論をするときに、その相手にどれだけの信用を置くことができるでしょうか。

 逆に、もしも私が自身の既知/未知のライン引きについて誠実(言いすぎ?)であることが、私と時間を共にする学生に少しばかり安心感を与えているとしたら、それは素直に嬉しく思いたいと思います。(※仮定の話です。)

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 以上は研究を例に挙げて書きましたが、他の立場の人についても同様のことは少なからず言えるのではないかと私は感じています。

 「~~~を知っていますか?」と聞かれて、もしそのことを自分が知らなかったら。私だったらまず、少なくともそのすべては知らないと答えるでしょう。そして、相手と時間が許すようであれば、的を外さない範囲で、

・自分がどこまで知っているか、
・それに加えて何(どの辺り)を確認するのが良いと考えられるか。

 これを簡潔に答えるよう努めるでしょう。

 「~~~について教えてもらえませんか?」と聞かれて、もしそれを自分が十分に教えられないようであれば、相手が望んでいる範囲に注意を払いながら、

・自分がどこまで知っているか、
・十分な回答にあたる内容を、どうしたら相手が手にすることができるか。(誰に聞くのがいいのか/どこをどう調べたらゴールに近づけるか)

 これを簡潔に伝えられるよう努めるでしょう。ただし、余計なことを長く話して相手の時間を無為なものにする、という罪だけは絶対に避けなくてはなりません。

 無知であることを恥じる必要なんて、まったくありません。知識の量なんかよりも、何が分かっていて何が分からないのかの「区別」の方が、ずっと良い仕事をその人に呼び込んでくれることでしょう。
 様々な人と接しながら、物事を動かしていくという経験を数多くするようになった今、私はその「区別」こそがますます重要なものであると感じています。