決して“下”には合わせないこと。たとえ周りが“そのレベル”で良しとしたとしても、自分だけは“次のレベル”で勝負ができると信じること。
もし自分が“そのレベル”で努力をしたいと思うのであれば。そこでこそ勝負をしたいと思うのであれば。勝負したいレベルをはっきりと意識すること。まずは、それだけでも十分なのです。
当たり前のラインを下げられることを、許せる人間であってほしくありません。“馬鹿にされる”ことで自らを卑下し、殻に籠るようでもあってほしくありません。
たとえどんなに“上”に見えても、たとえどんなに今の自分と離れているように見えても。そこに目を向けることで、人は初めてそこに到達できる権利を手にすると思うのです。
一方で、他人の“レベル”をけなすことを断じて許してはいけないとも思います。ある評価軸では“下”に見える人物であっても、その人物は別の評価軸では必ず“上”でもあることでしょう。人によって、持っている「勝負所」が違うことは当然のことです。「人に上下はない」という言葉の意味は、きっとそういうことです。
さて、「勝負したいレベルをはっきりと意識しさえすれば、まずは十分」という言葉には意義を唱える人もいるかもいることでしょう。しかし私は、意識を“し続け”ることは、やはりある意味では十分だと思います。その理由を表してくれている文を、次に上げておきたいと思います。随所でよく引用される言葉なので、皆さんもご存知かもしれません。
思考に気をつけなさい
それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい
それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい
それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい
それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい
それはいつか運命になるから。
私はよく、自分のことを棚に上げて「もっとこうしてほしい」「もっとこうしたら良い」と仲間に言うことがあると思います。自分のことを棚に上げて物を言うのは、心苦しいこともあるのも事実です。しかし、私はそれを止めることをしないと思います。
そうすることで、あなたには悠々と私の“レベル”を超えてほしいから。私のすべての失敗も、仲間には少しでも“糧”にしてほしいと思うからです。
そう思える仲間に囲まれて生きていることに感謝いたします。
昨年の今ごろ、私は研究室での「意気込み」にこんな言葉を書きました。
「研究をすることは最低限。
それ以上の仕事と経験をしたい。」
すべては、そういうことです。
たとえ、今、自分に無理だと思うことでも、何度も工夫してそれに立ち向かうこと。その工夫の連続が、その人の価値を高めていってくれるでしょう。そして何より、その行動こそが「不可能」を「可能」に変える唯一の方法なのです。
今回も自分のことを棚に上げて、すべての仲間にこの言葉をおくります。