年度が替わってからいろいろ書いていたら、1ヶ月半ほどで溜まってしまったので、以下に3つほど書き上げてみたいと思います。
・その実験系が何を反映するモデルなのか
・自らの課題に主体的に取り組むこととは?
・大学は教授・上司のコピーを作る場所ではない
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●それは違うでしょ。「その実験系が何を反映するモデルなのか」
一例ですが、in vivoのものをin vitroに落としてきて実験に供するときに。「それが生体内(in vivo)の状態を反映していないかもしれないけれど、回収したもので『とにかく群間比較をすること』に意味がある」という話を聞くことがありますが、それは違います。
・その方法で前処理したin vitro試料が、どういう研究で使われているのか。
・その方法が、in vivoでの(性)質の評価に適ったものなのか。(既報があるのか。それとも、何かしらの方法で自身が確認する/できるのか。)
それを基に、自らの実験デザインを組み立てたり、説明したりすることが求められます。
すでに確立された方法であれば問題がないでしょうし、求められれば既出の文献を示せばいいでしょう。しかし、既存の方法を自身でアレンジしている場合には、上に箇条書きで示した2点が重要になります。
●自らの課題に主体的に取り組むこととは?
この問いに対する答えは、何をどのように考え、実験を進めている(きた/いく)のかを「自分の言葉で説明し切ること」に他なりません。
それを自分の言葉で説明し切ること。それができたときに、自身の主体性や、自身の前に広がる世界を、また違った形で見ることができるでしょう。(⇒研究者として活躍するために)
私自身、そういう経験をしてきました。しかし、本当のそれは今もまだ見ていないのかもしれない、と思いながら課題に取り組んでいます。
主体性を持って始めて、手に入れられる自由があります。自由を手に入れるのは権利ですが、手に入れた自由を生かすためにも、能力が要ると言えるでしょう。生化若手の杉田くんの言葉を借りると、必要なのは「知識を活かすための知識」とも言えるかもしれません。
なお、これを実現するための必要条件の一つが、「先行研究(論文)を十分に調べ、その上で自らの研究課題の立ち位置(どのような新規性と独自性があるのか)を明確に示す」ことです。これについては、昨年12月の生化学会フォーラムでも述べましたので、⇒こちらもご参照ください。
●大学は教授・上司のコピーを作る場所ではない
ラボでの学生生活で“上下関係”が強すぎて、お互い(とくに下の学年の学生)の意思やアイディアを尊重できない。そんな例を、私は少なからず見聞きしてきました。これは看過できない問題であると、私は考えています。
何か価値を生み出す源泉の一つは、アイディアにしても論理にしても、各々が・自分自身が感じたことを大切にすることです。そのため、上の立場の人が相手に、たとえ小さくてもフォームを与えるときには、それが招く負の側面も理解しなくてはならない、というのが私の考えです。
逆にそれを受けた側も、受けた負の側面に敏感である必要があります。といっても、上司に刃向かえという意味ではありません。むしろ、上司以上に良いフォームを自分で作るという気概が必要であると言えばいいでしょうか。
しかし、「上司以上に良いものを作る」と言っても、ただ単に何かを変えれば良いというわけではありません。残すものと変えるものとをどう分別するか、全体として良くするために何をどう変えるか――
そこで勝負できる人だけが、“新しくより良いもの”を作れるのかもしれません。
最後は少し、独り言になってしまいましたが。
<以前の関連エントリ>
・仲間に伝えたいこと(2011年4月)-たとえ周りがあるレベルで良しとしたとしても、自分だけは“次のレベル”で勝負ができると信じること。
・卒業論文(学位論文)の書き方(2012年1月)
・同僚(ラボの学生)へ(2013年4月)