論文を書くこと・それを指導することの意義

 学生の卒業論文を添削するこの時期に、タイムリーなブログ記事に出会いました。

論文指導の意義ってなんだろね、というおはなし
 (ブログ「bluelines」より、2011年1月24日)

 論文を書けるになっていく過程で、どのような力を伸ばすことができるのか。それを大学(院)で指導することにどのような意義があるのか。それは、上の記事で書かれている次の一文に集約されているように思います。

「他人を『読んでみよう』という気にさせる論文にしなければ意味がない

 論文や研究発表を「読んでみよう」という気にさせるための要件については、上の記事で次のように書かれています。

 イントロでどうやって読者の注意を掴むのか。あるデータをどのように提示するのか。どういう形でargument(主張)を積み上げるのか。「強い主張」と「弱い主張」をどう書き分けて、それを論文中にどう配置するのか。このフィールドの先行研究とどう関連付けるか。今回の研究のloose ends(達成できなかったこと)についてどう言い訳するのか。

+++

 「表現力の向上」を研究と同時に目指しているというと、それを嘲笑うような人が今でも、私の周りでもいないことはありません。
 しかし、そのような人に限って自身の考えを言うことはあっても、その考えを秩序ある形でなかなか伝えてくれません。そればかりでなくそのような人は、研究の目標に向かって具体的に何をするかというビジョンを描けていない場合が多いように思います。

 それは、おそらく「表現しようとする」ことや「表現できる」ことが、自分の考えを見やすい形で整理することでもあるからでしょう。つまり、自らの研究テーマの長期的な展望から短・中期的な予定を描くときや、逆に短期的な予定の先に長期的な展望を描こうとするときにも「表現力」が必要なのだろうと思います。

卒業論文(学位論文)の書き方(2012年1月5日)
記事紹介「論文の書き方」(2011年2月25日)


 うちの研究室では、先週修士論文の発表会があり、明日と来週にはそれぞれ研究室内・学部内での卒研発表会があります。
 発表がうまくいくことを、後輩はおそらく望んでいるのだろうと思います。

 しかし、たとえ今回の発表がうまくいかなくても、悔しい思いをすることになったとしても、彼らが発表を通して自身の表現力と向き合い今後の糧にさえしてくれれば、私が彼らと一緒に研究をしてきた甲斐があったとのだろうと思います。
 私は、彼らがたとえ“研究”を離れても役に立つ能力を、彼らに研究を通じて身に付けていってほしいと思うのです。

 ・・・資料の完成はまだかな~。

大学院を修了することの価値(2010年1月)
私の卒業研究(5年前)