沈黙は金ではなく鉛

「沈黙は鉛」

うちの教授は毎年、年度の始めのセミナーで
この言葉を使い、セミナーでの発言を促します。
議論をしていい場所でそれをできないことや、
議論すべき場所でそれをしないことの損を、
学生に気づいてもらおうとしています。

その意味を理解して実行に移すことを
はじめの1年間(卒研生時)にできる学生は
1~2割。
その後の2年間(大学院修士課程)を含めた
3年間のうちにできる学生は、平均して
4~5割くらいでしょうか。


おそらく、今の私はどこにいても
発言をできる人だと思われています。
たしかに最近の私は、どんな場面にいても
発言のタイミングを窺い、だんだんに発言を
できるようになってきました。

しかし、私もつい数年前までは、
それを簡単にできるわけではありませんでした。
これを「できる」ようにしてくれたのは、
「できない」うちからの意識であったと思います。
私の場合は、何とか発言から益を得たいと考え、
またそれを得られる力を自ら付けたいと
思い続けてきました。

「雄弁は銀 沈黙は金」の
「銀」に注目したことになるかと思います。

この、発言すべき場所、発言をしていい場所で
これを実行して得られる「銀」は、
どのようなものか。皆さんはどう思いますか?

(※ 「雄弁は銀 沈黙は金」の本来の意味が
  私の理解と違うかもしれないのですが、
  その点はご容赦ください。)


得られる「銀」は様々で価値あるものなのですが、
簡単にまとめると、次の3つになると思います。

・自分の考えを周囲に伝えることができる
・自分の考えに対して人が抱く考えや思いを
 知ることができる
・自分の考えを見直し、整理し直すことができる


私は研究室に配属されて以来、だんだんと
発言や議論の場に参加できるようになりました。
結果として、周囲の人がそれを評価してくれたのも
私にとって幸せなことでした。

とくに、発言により周囲の中における
自分の立ち位置が見えやすくなったことは、
とても有意義なことでした。


もし発言の内容が、
相手にとって不都合なものであった場合。
それにより、切れてしまう縁もあるかもしれません。
でもそれは、初めからその程度の縁だったのでしょう。

また、発言に対する周囲の応答によっては
“プライド”が傷つけられるような経験を
することもあるかもしれません。
しかし、傷つけられることを恐れて
自らの動きを制限してしまう“プライド”は、
真のプライドではないのだとも思います。

発言から益を最大限に得るためには、当然ながら、
相手や周囲を思い遣って発言をすることが
必要条件ではあります。

周りの“空気を読まずに”発言するくらいであれば、
たしかに「沈黙」が「金」かもしれません。

しかし、それよりも私は発言することで得られる
多くの「銀」に注目することをお勧めします。
その「銀」に比べたら、沈黙から得られる「金」は
「鉛」ほどの価値もないのであろうとも思います。


できれば失敗を恐れずに、
ただし節度を持って発言すること。
それにより得られる価値ある「銀」を、
多くの人に得てもらいたいと思います。