「山口」の地域と町の不思議なストーリー


 2023年末の旅行で姫路から西に行って次に向かったのは山口。室町時代初期(南北朝時代)の1360年ごろに、大内氏が周防と長門の統一を果たしたときに拠点とした町で、市内で複数の遺跡を見ることができます。「大内氏館跡」で北の山を映した池泉が最高でした。


 この山口駅は、全都道府県庁所在地のJR駅の中で、最も乗降客数が少ないそうです。次に少ないのは津駅。津の方は、近鉄の津駅の方が名古屋に出るのに便利だからでしょうか。

 ではなぜ大内氏はここを拠点にしたのでしょうか。それは大内氏が京の町に強い憧れがあり、山口にも盆地に街づくりをしたいと考えたためということのようです。町の整備にあたっては、市内を流れる一の坂川を京の鴨川に見立てたとも。

 しかし200年以上後の江戸時代初期に、長州藩の藩庁は山口でなく萩に置かれ、地域の中心も萩に移りました。元は広島を拠点にしていた毛利氏長州藩主となった折に幕府に伺いを立てたところ、交通の要衝となる瀬戸内海側(防府)ではダメで、萩に行くよう指示を受けたのがその始まり。その後山口は、参勤交代の経路にもなる萩往還(萩~防府三田尻)の中継地という位置づけになりました。

 さらに200年後の江戸幕府末期、長州藩は藩庁を萩から山口に移します。このときの山口藩庁門が、今も山口県庁前に保存されています。


 このときもなぜ、山口でなく瀬戸内の防府を中心地にしなかったのか? それは江戸時代末期で海外の情勢変化の驚異に対応するのに、内陸でないと “異国” 艦船の防備に耐えないという判断があったためです。そして、この藩庁の山口移鎮後に時代は明治を迎えました。

 それでも、街の規模が京とは当然違う山口は地域の中核都市にはならず、近隣の最大都市は港町(下関)に、工業地帯は瀬戸内(宇部)に、交通の要衝も山陽道と石州街道の分岐点である小郡(今の新山口)に譲りました。しかし、だからこそと言うべきか、市内の一の坂川は今もゲンジボタルの生息地であり、流域の主要河川(椹野=ふしの=川)も希少な川魚などが住む水が今も守られています。

 山口市は唯一、県庁所在地の自治体(市)の人口密度が県全体の人口密度を下回るのだとか。大内氏館跡や県庁前にほど近い繁華街を歩いてみると、地下道にある地図の電気は一部が消えたまま取り替えられていなかったり、通路の広告枠には「企業広告募集」の貼り紙だけで企業の広告が一つもなかったり。
 市内中心地の「タクシー乗り場」にタクシーがいない県庁所在地を見るのも初めてで、歩いていると不意にこの地域出身の国会議員が「地方、地方」と張り上げる声が脳内再生されます。ただし地域を盛り上げるためにやることは、地方の中核都市のコピーをここに作ることではないと思いますが? 大内氏が拓いた歴史や誇れる銘菓を、地域のストーリーと一緒にもっと知りたいものです。

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 一方の萩の方も現在の交通の主要ルート(JR山口線 [*1]、国道9号)から外れているためか、東萩駅の列車が1日8往復の普通列車のみだったりと最近知って驚きました。島根から鉄道で萩に行こうと先日計画したら、山陽側と同じ時間感覚ではまったくアクセスできないんですね(でも、この1日8往復の列車を今度狙って行ってみようかな…)。
 それどころか山陽線に至っても、岩国~下関の在来線も広島~小倉の新幹線「こだま」も、どちらも昼間の運転頻度が1時間に1本しかないんですよね。しかも新山口での相互の乗り継ぎが良くないのが実情。これでは鉄道が
地域内の移動手段として便利でないので、今ある形の地域の鉄道がだんだんと使われなくもなるわけです。車社会おそるべし。


 しかし今回は山口からもレンタカーを使わずに、子連れでの新山口での乗り換え45分待ちも楽しんでさらに西に向かいました。通過する新幹線「のぞみ」の、びっくりする大きな音に負けずに大笑いをしつつ。(つづく

 [*1] 新山口(小郡)~益田を結ぶ山口線は、2023年が全通100周年だったようです。ここは珍しく鉄道が非電化の県庁所在地であり、それを逆手にとってかSL(蒸気機関車)を今も走らせているところでもあります。