原爆ドームのインパクトと晴れの安芸高田~宮島散策

 2023年の2月に子連れでは初めて行ってきた広島。原爆ドームの姿が小さい人たちに与えるインパクトが想像以上に大きく、しばらく絶句しながら平和祈念公園を歩きました。夕暮れで日の傾いた時間帯だったこともあったかもしれません。


 この建物が今の姿になった理由は、5歳の人も理解した様子。小学生も、珍しくニヤリともせずに散策して回りました。


 戦争で廃墟となった、日本では幸いにも多くない建物の址ですが、このような光景が “史跡” でなく “今” 増えているところがあるわけでね・・・


 なお、この形で記憶されている原爆ドームですが、元々の建物は南側(市電のある通りの反対側)に部屋が多数連なる構造だったのですね。南側が多く崩れたのは、爆心地がこの “ドーム” より少しだけ南側だったから、ということはその小学生も予習していたようでした。
原爆ドームへの質問と回答広島市


 私自身は仕事でも数回以上は来たことのあるところでしたが、小さい人たちと来ると学びが大きいのを改めて感じましたよ。このタイミングで行くのは幸運でした。ふと予定が空いた2月の週末に、ウメの咲く福岡とどちらに行くかを迷って、天気が良い予報だったという理由で行った広島。他には広島城安芸高田郡山城跡、好天の宮島と回ってこれました。


 毛利輝元が今に近い構えを築き、1591年から関ヶ原までの10年間ほど入った広島城。広島は元は海だった三角州の土地で、毛利氏にとっては元就(輝元の祖父)の代から、山間の吉田郡山を出て移りたかった場所。古くは幅100mの広大な水堀が、西側の内堀にあったのだとか。国道54号やアストラムラインのある側ですね。


 (今も広い内堀の側から、夏の終わりに。当たり前ではありますが、葉の色がまったく違う。)


 広島城跡も戦前は軍用地でした。日清戦争のあった1890年代には、広島が東京からの鉄道の終点であったことと瀬戸内海に大きな港(宇品)があったため、明治天皇も入った大本営であった時期も。


 安芸高田郡山城跡。広島市内から北東に50kmほどのところ。今年は1523年に毛利元就家督を継ぎ、この山城に入って500周年だったそうです。毛利で500周年というと、NHK大河「毛利元就」(1997年)が元就の生誕500年のタイミングだったようですね。


 毛利氏は、元は鎌倉で活躍した大江広元の曾孫が安芸(南条)に入ったのがルーツ。その後、元就の指揮する毛利氏が1540年頃に尼子氏と争った後、厳島合戦で陶氏を破るのが1555年のこと。山口の大内氏の滅亡後にさらち勢力を広げつつ、秀吉と1582年に講話した後、輝元が1591年に広島城に移るまでこの安芸高田が毛利氏の拠点でした。


 最後に宮島へ。


 瀬戸内に水軍を編成した平家の時代から、信仰の場所だった場所ですね。行きはJRで、帰りは広電で。


 その広電HPで紹介されている広電の歴史は、開業や戦後復興の話が充実していて興味深いです。

広電の歴史―広島電気軌道時代(競願と会社設立・城濠埋立用地問題・電車開業 [明治42年~大正6年])から
 広島城の水堀を埋め立てて線路を敷く際に、専用線とせずに道路を合わせて整備したことが市の発展につながったり、終戦直後で物資の不足する中でも早くに復旧して溢れるほどに人が乗り、台風で川に落ちた車両まで再利用するほどに人々に必要とされた歴史とか。もちろん、今も多くの乗客を乗せた電車が頻繁に走っており、市内の便利な移動の足となっていることがよく分かります。


 この宮島で買って、帰りの新幹線で食べた「かきめし」(小さい人はあなごめし)が、出汁の効いてとても美味しいお弁当でした。そしてこの帰りは新幹線でしたが、行きは飛行機で朝に羽田発。冬の好天に見る都心や富士山が最高の眺めでした。

 
 もうすぐまたこの季節が来るのが楽しみです。