岡山桃太郎空港から石垣と転車台の津山、塩と水道の赤穂を回る

 2022年最後の飛行機は岡山行きで、津山や赤穂に行ってきました。

 羽田行き岡山行きの飛行機から! 山頂に向かう登山道も雪でコントラストがついて見えました。この後、城好きの10歳の人は名古屋城も見つけて、上空からの姿として写真に収めていました。マジかいな。岡山空港から、1時間半足らずでまずは津山へ。

 津山は岡山県北に位置し、西日本の主要な自動車専用国道(高速道路)として山陽道より14年早く開通した中国道(1983年~)沿いにある主要都市です。
 古くは室町時代に、嘉吉の乱足利義教を襲った赤松満祐を討伐した山名忠政がここに入りました。応仁の乱後に山名氏不在となった後、関ヶ原後に一度は小早川秀秋がこの地域に来ますが1603年に早世。これに伴い森蘭丸の末弟の森忠政が、信濃川中島藩から転封されて津山に入ります。そのときに城が鶴山(かくざん)に築かれたため、その訓読み(つるやま)を由来に町が「つやま」と呼ばれるようになりました。
 ここで森忠政が江戸時代初期に改修した城郭は、五重の天守を中心に77棟の建造物(門や櫓が多くて有名な姫路城より多い)を有する雄大な構えだったそうです。姫路、松山と並んで日本三大平山城とも呼ばれます。


 建造物の多い構造を持ったためか、壮大な石垣の中の城郭も複雑なつくりに。この壮大なつくりが「近世城郭」。戦闘の頻繁に起こらなくなった江戸時代になってから、時間をかけて築くことのできたという特徴を表していると思います。

 この形で津山城が整備されたのが1603~16年で、武家諸法度の発布(1615年)より前から準備していたものの、その天守江戸城に匹敵するものであったために幕府に目を付けられてしまってもいたという歴史も。その後雄大天守は、時代が明治に変わった際の廃城で破却されたものの、1936年に一度は再建。しかし、直後の太平洋戦争で空襲の対象になることを避けて10年も経たないうちに取り壊したまま、今に至るそうです。何てこと・・・。

 ↓「石垣まみれ」「枡形内はまさに袋のネズミ」の解説が面白いです。
 その森氏の時代は100年足らずで終わり、1698年からは親藩松平氏が入りました。“津山10万石” の藩として、西の外様大名の動きを監視するのに重要な位置と規模の地域が津山だったようです。


 というわけで、まるでJALのような「鶴の丸」の森氏の家紋に、松平の三つ葉葵が並びます。

 この津山は中国道が通る一方で主要な鉄道幹線は通らないものの、津山線(岡山へ)、姫新線(東の姫路から西の新見へ)の結節点にあたります。新見やさらに西の三次と並び、津山も中国地方内陸の鉄道交通の要衝。そんな重要地点に相応しい転車台と扇形機関車庫が、今も駅の西隣に置かれています。


 津山線因美線に使われる古いタイプの気動車ディーゼル車)には、先頭に「日本国有鉄道」つまり『国鉄』の文字があるのをうちの小学生が見つけていました。つまり、国鉄民営化(JR発足)以前からの車両が今もここでは見られるんですね。

 この後10歳の人が立派な津山駅構内を見たいというので、入場券を買ってそちらも見学へ。そうしたところ、小さい人たちに嬉しいサプライズもありました。サプライズは4歳の人の小さな宝物に。津山に感謝。

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 次いでもういっちょ行ったのは、山陽側の赤穂城跡。播州赤穂駅から1kmちょっとと案内されますがその距離で着くのは三之丸大手門までで、奥の敷地は広くとても歩きごたえのある城跡です。駅から城跡までの道は、赤穂の町の歴史的な上水道の解説などもあり楽しめました。


 海沿いにある赤穂は大量の塩の産地であった一方で、良い飲料水を得るのに古くから上水道を引く必要があったようです。江戸と同じ話ですね。7km上流の千種川から引かれた赤穂旧上水道は、神田上水(江戸)と福山上水(備後)と共に日本三水道と呼ばれるとか。


 ↑ 久しぶりに見た「サイフォンの原理」が解説に登場。


 水道の他にも、赤穂藩主による刃傷事件にまつわる逸話のある「息継ぎ井戸」なんかも。でも、忠臣蔵の話以上に歴史的には、江戸時代初期に西日本の毛利氏らを抑える役割が赤穂には期待されていたんですよね。


 赤穂城三之丸大手門。堀の下に通した上水道を城内で利用するのに使われたのが「サイフォンの原理」ですね。奥に見えるのは、赤穂に尽くした大石内蔵助らを祀った赤穂大石神社。


 そして播州赤穂からは右の電車で、城好きの10歳の人がずっと行きたくて行きたくて仕方のなかった場所に向かいました。(つづく