碓氷峠鉄道文化むら―鉄道史跡はかつての主要幹線の機関庫


 先月長野に行ったときの帰りに寄ってきた、群馬・横川(松井田町)の碓氷峠鉄道文化むら。その位置は1998年の長野五輪直前に開業した長野新幹線北陸新幹線)ができるまで碓氷峠を越えていた信越本線で、特急列車も普通列車も2台の機関車を増結することで行き来していた急勾配区間の群馬側です。多い時間帯には一時間に2本(しかもそれが往復)という多数の電車をさばくのに設けられていた壮大な機関庫が、今は当時の鉄道を展示する史跡になっています。


 国鉄時代(1987年以前)からの特急あさま号の車両が入り口に。


 他の区間では快走する特急列車に、ここでは登りでは牽引役、下りではブレーキの役を担うために電気機関車EF63が2台連結(重連)されていました。


 当時の勾配を示した図。最大傾斜の66.7‰(パーミル)が有名ですが、高崎から31k~39kは8kmも、ほとんどすべて63‰以上の急傾斜が続いていたんですね。
 そのほんの入り口までではありますが、当時複線で通っていた線路のうち、単線が残って観光トロッコを運行。もう片方の単線部分は遊歩道になっています。


 そこまでの急勾配の途中にあるレンガ造りの建物は、重要文化財の「旧丸山変電所」。急勾配に差し掛かる列車に電力を供給するために、中に312基の蓄電池が備えられていたそうです。

 この鉄道博物館さながらの施設はただの博物館でなく、25年ちょっと前(1997年9月末)まで現役だった機関庫。そこでの展示が、ただただ素晴らしかったです。


 左の「富士」はかつて東京⇔大分・宮崎を、「はくつる」は上野と青森の間で運行されていた寝台特急


 さらにブルートレイン以前の “茶色い” 夜行客車40系などの展示も、その立派な機関庫に。


 その40系客車の中も、2023年GWの期間限定で見学。畳に脚を伸ばせる部屋など、居住性を上げる設計が素晴らしい車両でした。今のようなクッション性のいいシートがおそらく無かった時代に、長時間の移動を快適にする工夫がなされていたのでしょう。


 最寄りの横川駅。長野新幹線の開業(1997年10月)まではすべての特急列車も停まり、機関車の連結・切り離しを待つ乗客向けの駅弁「峠の釜めし」がホームで売られる主要駅でした。今は群馬区間に残った信越本線の終着駅ですが、駐車場を抜けて鉄道文化むらから軽井沢の方に向かう線路も残っています。

 ここの場所は、上信越自動車道の横川SA(出入口はない)のすぐ横。しかし、この道を車で移動していてもまったく案内がありません。それでも存在を知っていて以前から行きたいと思っていたのですが、ようやく時間を合わせて行ってきた今回。GWの連休中にも関わらず意外と空いていてゆっくり楽しめました。とにかく元機関庫の施設が広く見応えがありました。


 トロッコと遊歩道の道のすぐ横には、江戸時代の史跡「碓氷関所跡」も。歴史好きのうちの小学生に、ボランティアの案内係の方が親切に歴史を教えてくれました。街道の名前は中仙道。江戸時代直前の中仙道というと、関ヶ原の戦いのときに徳川秀忠が通ったという出来事が思い浮かびますが、関所ができたのは江戸への人の出入りが管理されるようになってからなので当時は関所なんて無かったのですね。碓氷関所が設けられたのは、秀忠が将軍職を家光に譲って大御所になる1623年のことです。(なお、箱根関所の方も同時期の1619年の設置。)

 北海道の鉄道の存続も話題になる昨今、鉄道史跡は今のうちにもっと見ておきたいと思うところです。