発達「障害」と言わざるを得ないのか

 今日はまず、最近のNatureダイジェスト(日本語版)から強く興味を引かれた記事を紹介します。
 テーマは、脳機能障害に伴う子どもの発達障害に関する話題です。これを「障害」と言わざるを得ない現状を、どうにかして変えられないものかどうかと考えさせられました。

●「自閉症者の秘めたる能力
 Commentary by Laurent Mottron、Natureダイジェスト 9(2): 20-23(2012年2月)

 自閉症は、他者とのコミュニケーションがうまく取れない発達障害の一つとみなされることが通例です。しかし、この記事は自閉症を「障害」と決めつけてかからない方がいいのではないか、という強い提案をします。

 この記事では、自閉症患者では、(情報を処理するときに脳内の)発話情報処理のネットワークよりも視覚情報処理ネットワークのほうが活発になる」と記されています。つまり、自閉症者は情報を処理する際に、それを言語中枢に頼らないということです。
 不適切な言い方かもしれませんが、何かと「言語化」しようとしてしまう私には羨ましいとも思えなくもない性質です。もちろん、私は「言語化」が好きなことを強みにしたいと思っているわけではありますが。

 情報処理を言語中枢に頼らない場合、処理した結果の出力を(言語を使わずに)どのように行うのかは、私が疑問を持つ点ではあります。しかし、自閉症者は情報処理やコミュニケーションが異常・病的なのではなく、「その人に特徴的である」と見なすことがもう少し一般的になってほしいと思うところです。

●Gillian Lynne(ジリアン・リン)の逸話
 こちらは、先日もこのブログで紹介したTEDの講演「学校教育は創造性を殺してしまっている」(ケン・ロビンソン氏)から。

 ジリアンは小学生の頃、まったくもって絶望的でした。1930年代のことです。学校は彼女の両親に、ジリアンには学習障害があると伝えたんです。集中力がなくいつもそわそわしていた。今だったらADHD(注意欠陥・多動性障害)と言われているんでしょうが1930年代はADHDなんて概念はありませんでしたから、そう判断することはできなかったですよね。当時の人はADHDなんて知る由もなかった。
 とにかくジリアンは専門家に相談に行きました。重厚な壁に囲まれた部屋で、部屋の隅にある椅子に座るよう言われ、20分も何もせずに座っている横で、専門家は母親に向かってジリアンの学校での問題について話していたそうです。・・・最終的に医師がジリアンの所に来て言いました。「ジリアン、君のお母さんの話をいろいろ聞いて、お母さんと少し話がしたいんだ。少しここで待ってて。」ジリアンを1人残し、医師と母親は部屋を出て行きました。その際に医師はラジオのスイッチを入れました。そして部屋の外で母親に「ここでジリアンを見ていてください」と伝えました。するとジリアンは元気そうに、音楽に合わせて動き始めました。母親と医師はジリアンを見守りました。そして医師は母親に言ったんです。「お母さん、ジリアンは病気なんかじゃありません。ダンサーですよ。ダンススクールに通わせてあげなさい・・・


 その後ジリアンは、自身が「考えるのにまず体を使わなくちゃいけない」人間であることに気づき、キャリアを築き、偉大なミュージカルを手がけもした、という逸話です。

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 考えることを言語中枢に頼らなかったり、体を使ったりすることで行う性質を「障害」と呼ばざるを得ないのでしょうか。人の大多数と“同様でない”ことを、このように扱うことしかできないのでしょうか。(しかも、他の誰であったも決して他者と同じではないのにも関わらず。)
 皆さんはどのように考えるでしょうか。

 私は、子どもの健康/疾病を研究の大テーマに掲げて仕事をしているものとして、この課題の克服に寄与できる新しい知見を示したいと思うところです。


 (2012年2月8日 追記)
 (前略)障害や病気があるとわかったとき、それを受け入れることは、すぐにはできないかもしれません。けれど、障害は赤ちゃんの責任でも、親の責任でもありません。たいせつなのは、子どもが幸せになれる方法を考えてあげることです。
 障害があっても、その子なりの個性や長所があります。専門家をはじめ多くの人の支えの中で、その子らしさをたいせつにしながら子育てをしていきましょう。

 ――守谷市『母子保健テキスト』より、コラム「障害を持って生まれてきた赤ちゃん」(p.45)