古河歴史探訪(2022年10月@茨城県西)

 10月末の日曜日に、旧日光街道の宿場町でもある古河に行ってきました。目当ては10歳の人のリクエストで、古河歴史博物館。近く(茨城)にいたはずの私にとっても初めて行った場所でしたが、思った以上に素晴らしいところでした。

 中世の歴史で古河というと、室町時代に将軍家と争った鎌倉公方が移ってきたから呼ばれた「古河公方」(1455-1569)。秀吉による小田原攻め(1590年)の後に関東に入った徳川家康も古河を重視したため、その後も1633年からの土井氏など、長い間要人が治める地域でした。室町より前の時代としては、源頼朝の前に兵士打倒を掲げた源頼政の出身地であり、利根川対岸には源義経と親しかった静御前の最期の地とされる栗橋もあります。


 そう見ると、古くから大きい利根川の存在が、戦略的に重要な意味をここに持たせた匂いがするような気がしますね。実際に古河は、利根川支流の渡良瀬川下流側の低地にも面した舟の航路の要衝で、関東の各国国府の行き来に重要だったようです。そのように、ずっと関東平野の中央に位置したように見えるものの、それよりさらに以前、温暖だった縄文海進の時代にはこの辺りまで海だったりもしたようですが。

 歴史博物館の展示は頻繁に入れ替えられているようで、今回のテーマは明治維新(1868年)直前の時期に活躍した鷹見泉石(1785-1858)。江戸幕府の老中・土井氏の本拠である古河藩で、ブレーンとして活躍した人の展示がなされていました。この頃根室、次いで函館にロシアが来航した後に、1806年には国後・択捉へのロシア襲撃があり時期で、日本の安定を守るのに優秀なブレーンの活躍が特に必要とされた時代だったようです。なお、1806年はヨーロッパではフランスからナポレオンがベルリンに入り、イギリスに対して貿易禁止などの対抗を強めていった時期です。

 当時は今のような情報通信の技術がなかったことを考えると、地政学の変革期の危機感のレベルは東日本と西日本、関東と近畿でも全然違っていたのでしょう。そんな中で国レベルでの判断をするのに求められた力の大きさを想像するとクラクラしてしまいます。


 歴史博物館の玄関には、1990年に開館したときにオランダから寄贈されたというストリートオルガン(移動式パイプオルガン)。オルガンといっても指で弾くものでなく、いくつかの曲をハンドルを回すことで演奏できるオルゴールのような面白いつくり(ただし音は大きい!)です。

 売店では2021年刊行の本『古河史略―古河いまむかし―』に惹かれて思わず購入。こちらも、歴史紹介本でありがちな古代・中世の話だけを載せたものでなく素晴らしい内容で、しかも貴重な古地図の複製付きです。江戸時代の農地開拓(飯沼新田開発)、1930~40年代には電波の送信所もあって戦争の標的にもなったこと、戦中・戦後に工業の現場(工場)を誘致して経済を活性化して以来の現代の歴史まで記載があって読み応えがありました。
 鉄道の路線上でも、1885年に大宮・宇都宮間の鉄道が開業したときから駅設置のあった土地。それ以来の電化(1950年代)や、1980年代に高架化された頃の写真も載っていました。今も利用者の多い駅であるためか、乗換線かつ新幹線もある「小山」の16km手前にして、古河を始発・終着とする列車が2010年以降増えているんですよね。

●参考: 宇都宮線>乗車人員 (Wikipedia)

 なお、茨城県内の水戸線常磐線の開業は1889年以降だったので、1885年当時は古河が茨城県内で唯一の鉄道駅でした。普通は茨城県と言えば常磐線という印象が強く、位置を説明すると「茨城なのに宇都宮線東武線?」と驚かれることもよくある場所ですが、日光街道の筋にある宿場もあった歴史ある町ですしよかったら是非。