9月中旬に行ってきたオーストリアのザルツブルグ。経由地・イスタンブールからの飛行機でオーストリアの険しい山が見えてきたときは、14年前に初めて欧州に旅をしに来たときに、ドバイからチューリヒへの飛行機からこの山が見えて心躍らせたことを思い出しました。
今回は、到着した南ドイツのミュンヘン東駅から、ザルツブルグ中央駅 (Salzburg Hbf) 行きの列車に乗って、
初めは遠かった東の山に、だんだん近づいていくワクワク感。
ドイツ南東部の湖畔を抜けた後の、Traunsteinの町。
ザーラッハ川 (Saalach) で国境を越えると、いよいよオーストリア。
ここからわずか数分ほどで、列車がSalzburg Hbf(ザルツブルグ中央駅)に着きました。中央駅から旧市街に向けて歩き、まず着くのはザルツァッハ河畔にあるミラベル庭園 (Mirabellplatz)。
水と花に溢れる、陽射しのよく似合う明るい庭園でした。
隣接する宮殿で、仕事後の夜にモーツァルト曲のコンサートも聴けたのも贅沢な時間でした・・・。
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町のうち、川からこの庭園のある側は新市街。新市街と言っても400年以上の歴史ある街区で、リンツァーガッセ (Linzer Gasse) のように歩行者専用の、旧市街顔負けの路地もあります。
この通りの向こうにあったオーストリア料理店Die Weisseで頂いたビール「Weisse Blonde」。泡がしっかりしていて、もはや食べ物の域でした。地元の人も多く来ている様子の店でした。
この新市街と旧市街とを分けるのは、ザルツァッハ川 (Salzach)。町の名前にも付いている「Salz」の意味は塩 (salt) で、古くから南の山で岩塩が採れ、それをこの川を通じて欧州各地に送っていたことに由来するのだそうです。
この川を渡った向こうは、「ザルツブルク市街の歴史地区」としてユネスコ世界遺産に登録(1996年~)されている旧市街。
モーツァルトの生家もあるゲトライデガッセ (Getreidegasse) は、中世から賑やかな場所だった通りなのだそう。両側の5階建ての家からは、たくさんの突き出し看板が並んでいましたが、芸術のようなその看板たちも、旧市街の老舗工場で作られているのだそうです。
旧市街の中心には、大聖堂。
大聖堂は774年建立。ここに大司教座が置かれ、ザルツブルグは宗教都市として栄えたのでした。
大聖堂の中。中には複数の立派なパイプオルガンがあったのですが、それはモーツァルトも演奏したことがあるものなのだそうです。
大聖堂などが並ぶ旧市街の向こうの丘には、ホーエンザルツブルグ城 (Festung Hohensalzburg)。11世紀後半の神聖ローマ帝国での権力闘争の中で、初めはザルツブルグ大司教が防御のための小さな砦として建設が始まったものなのだそうです。
「Festung」は砦、「Hohen」は高いことを表す言葉で、この高台の砦からの見晴らしはこの町一番のものでした。
パラケルススの展示もここに。彼は天文学や医学、化学・薬学の様々を16世紀前半に追究した科学者ですが、衛生学・毒性学では彼のこの言葉は外せません。
「すべてのものは毒であり、毒でないものなど存在しない。その服用量こそが毒であるか、そうでないかを決めるのだ。」
パラケルススは、我々、衛生学・毒性学を専門とする者にとって重要な存在。特に「あらゆるものは毒であり、毒無きものなど存在しない。あるものを無毒とするのは、その服用量のみによってなのだ。」という発言が私には印象的。科学が未熟な当時に、この事実に気づいていたのは本当にすごいと思う。 https://t.co/FjYYiZhsUM
— しそごはん用研究者 (@ONODA_in_Onodac) September 24, 2019
ホーエンザルツブルグ城の中には、町を向いて置かれた大砲がありました。町の方を向いているとは悪い冗談で、モチーフか何かかと思ったら、これも長い歴史の中でその通りの役割を担わされた時代があったのだそうです。南ドイツに始まった重税に抗する農民一揆がこの町でも起こり、土地を治める大司教と市民との間が睨み合ったときに、町を向くこの大砲が置かれたのだとか。それが1525年のこと。
その次の時代の16世紀末(1600年手前)に大司教となったのが、ブォルフ・ディートリヒ。ローマに留学していた彼は若くして大司教になり、先の農民一揆などですっかり暗くなった町のイメージを一新すべく、願わくはザルツブルグをローマのように明るい街にすべく、城づくりでなく町づくりに関心を向けました。
それ以降の町づくりが、現在のこの町の明るく文化的な雰囲気の礎になっているのだそうです。
もっとも、城から出て町の再構成に努めたこの大司教も、強欲的な生活からは離れなかったように見える逸話も。例えば、先のミラベル宮殿(当初の名はアルテナウ宮殿)も、元はブォルフ・ディートリヒが愛人のために建てたものだったのだとか。
もっとも、当時の宮殿は今のものよりずっと小規模で、しかも旧市街から川を挟んで向こうとなるエリアは、当時まだ閑散としていたそうでもありますが。16世紀はかくいう時代。日本では天下統一間近だったものの、まだ戦国時代が終わっていなかった頃。400年という年月は、こうも時代を変えるのだと思わされます。現代の社会も、400年後にはとても古く異質に見えるものになっているのだろう、とも。
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かの有名な20世紀の指揮者、ヘルベルト・フォン・カラヤンの名を冠した広場、Herbert von Karajan Platz。サウンド・オブ・ミュージックにも登場したという「馬の水飲み場」はここにありました。
私が今回泊まったホテルは、旧市街の背にあるこのメンヒスベルク (Mönchsberg) の向こうでした。今回ここに着いた滞在初日、ホテルまでバスに乗って行けばいいところを、そこまで私は歩いて向かっていました。しかし、車道の横にある歩行者専用トンネルの存在をはじめ知らなかったので、私は荷物を抱えたままこの丘を越えることに。
思わぬ砦や石垣があって楽しかったからいいのですが、なかなかのハードワークになる急斜面でした。なお、帰りは帰りで早朝に歩いてこのトンネルを抜けようとしたところ、一時通してもらえず空港に向かう列車に乗り遅れることにもなったわけですが・・・。
そんなこんなで、2日半の滞在中仕事の合間に町もずいぶん歩くことができたのですが、夕暮れ過ぎまでとにかく美しい町でした。
旧市街のSigmund Haffner通り。
観光名所として名高いマカルト小橋 (Makartsteg) から眺める夜の旧市街。
今回は久しぶりに渡航先のガイドブック(オーストリア)も買って来たので、次の機会には他の町も巡ってみたいものだと思います。
PS. ザルツブルグに行く直前に図書館で偶然見つけたこの本も、この町の面白い歴史を多く教えてくれました。
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・時差: UTC +1(3月末~10月末はDSTで +2)
・通貨: ユーロ
●ザルツブルグの天気 (AccuWeather)
2019年9月9-12日の気温は、最高15~20℃、最低11~・・・ 6℃(!!!)。ウィーンよりも3℃ほど低いようでした。
●ウィーンの天気
●オーストリアもろもろ(Wikipedia)
国名の「オースト」(Öster-)は、「東の」の意味。欧州の中で東部に位置することが表されていたのですね。
●オーストリア共和国 基礎データ(日本外務省)
オーストリアと日本との外交関係は、1869年に修好通商航海条約を締結してスタート(当時はオーストリア=ハンガリー二重帝国)。今年=2019年は、その150周年ではありませんか。
●オーストリアでの注意(オーストリア政府観光局)
覆面禁止法(2017.10~)があり、マスクをすべきでないとのこと。
●2019年11月追記: カラヤンと聞いて私が思い浮かべるのは・・・ この「モルダウ『我が祖国』より、指揮:カラヤン」