初めて訪問したウィーンは意外と東。帰りは空港で雑魚寝も・・・

 先週は学会でオーストリアのウィーンへ。ウィーン大学にいる友人訪問も兼ねて、何年かぶり(コペンハーゲンでの開催だった2016年以来かな)のFENS Forumに参加してきました。


 ウィーン大学 (Univ. Vienna) では、生物学の基礎研究が盛んなBiology Departmentの研究棟を訪問。様々な生物のつくりのメジャーな研究拠点ということで、まるで博物館のようにクジラの骨格標本が廊下や教室にある建物で、ヒドラの観察もさせてもらいました。


 ここに見える小さい生物がヒドラ(長さ数mm程度)。周りを泳ぐクリオネを捕食しています。哺乳類とまったく違う構造の生物の動きを見ながら、生物種差を超えたイオンの細胞膜通過やシグナル伝達物質の存在に、それらのメカニズムの精緻さに想いを馳せました。

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 このウィーンが東欧に近いというイメージは正直抜けていたのですが、間違いなくすぐ隣が東欧という位置にあったようです。と思って「オーストリア」の国名を見直したら、その語頭にそもそもOst(東の)が付いていましたね。

 1867~1918年にオーストリア=ハンガリー帝国があったように、オーストリアのすぐ東隣がハンガリー。ドイツだと南東部になるミュンヘンと比べても、オーストリア西部のザルツブルグはもっと東ですので、スイス・チューリヒなどよりもオーストリアはずっと東ということになります。ウィーンはそのオーストリアの中でも東部に位置する首都の街です。
 なので経度で見てもウィーンの方がプラハよりも東で、ウィーンからプラハを経由してベルリンに夜行のFLIX BUSなんかも、ウィーンから北西に進んで行くことになるようです。


 ウィーン(右下)からデンマークコペンハーゲンまでの経路の一例。FLIX BUSがチェコのブルノ~プラハ、ドイツのドレスデンを通ってベルリンへ。ベルリンからハンブルグの方に向かうと、デンマークのオーデンセ(Fyn島の主要都市)を通ってコペンハーゲンまで行く列車も見つかる。

 そんな経度に位置するウィーンには、豪奢な建物の並ぶ市街の中心地の広場に、Soldaten der Sowjetarmee(ソビエト軍兵士)を讃える記念碑があります。


 場所は、宮殿の一つPalais Schwarzenbeg(シュヴァルツェンベルク)のすぐ横の広場。


 具体的にはソ連軍が1945年4月に、末期のナチス・ドイツからウィーンを市街戦を経て “解放” したことを記念する内容で、同年のうちにスターリンの命で建てられた赤軍モニュメントです。東欧からの物理的に近い距離感なしにはなかなか無いものなのではないかな、と驚きました。なお、1945年の戦後には東西に分けられたドイツやベルリンだけでなく、このオーストリアおよびウィーンも複数の戦勝国により分割統治されました。その後のオーストリアは、ソ連スターリンが没した2年後の1955年後に共和国として独立して永世中立国を宣言し、ソ連の影響を脱することになります。

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 帰る直前に、そんなウィーンの軍事史博物館に寄ってきました。


 立派な建物で、元は1850年ごろに作られた兵器収蔵庫(アーセナル)を展示施設にしたもの。1280年代からオーストリアを統治したハプスブルク家時代の展示は、新旧キリスト教三十年戦争(1618-1648)、大トルコ戦争(1683-1699)にその後も続くオスマン・トルコとの争い、ドイツ北部からポーランドにあったプロイセンとの長い戦い(〜1866)、フランス革命戦争への関与(1792-1802)、サラエボ事件(1914年)以降の苦境と歴史の展示が続きます。周囲の勢力と陸で国境を接する中で重要視された技術や外交の、痛々しいまでの記録が並んでいました。


 オスマン・トルコ(1299~1922年)による、1683年の第二次ウィーン包囲からの解放。この包囲を破られたオスマンは、この後の大トルコ戦争を経てヨーロッパでの優位を失っていくことになります。


 オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナンドが、暗殺されたサラエヴォ事件のときに乗っていた車が、このウィン軍事史博物館に展示されています。この横には、皇太子がそのとき着ていた血まみれの服の展示も…。

 この事件を発端にして起こった第一次世界大戦中、ロシア革命が1917年に起こりソ連が成立します。ソ連からは、オーストリアやドイツなどの中欧諸国の兵を取り込もうとする動きがあったものの、それにオーストリア兵は動かされなかった、という展示もここに。複雑ね。国境を陸で接する王朝など国が並んだ土地の人々の大変さを思うと、言葉を失ってしまいます。

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 この見学の後、私は金曜の夜のうちに自宅に帰るぞと空港へ。乗った飛行機がなかなか動かないと思ったら、窓から見えてしまったのは・・・


 左手に虹。これが見えるいうことは、上空の大気の状態が不安・・・と思ったら案の定流れた、遅延のアナウンス。結局3時間以上遅れ、フランクフルトから羽田行きの便に乗れませんでした。


 遅れて飛ぶウィーン-フランクフルト便から。雲も上から見たら、こんなに美しいのに。ただし、明るく見えますがこのとき現地時間はすでに21時すぎです。(夏至の時期で緯度が高いので明るい。)

 置いてきぼりを喰らったフランクフルト。ここでは預けた荷物がどうなるのかが気になり、ホテルを押さえる行列に並ぶのを後回しにしてBaggage Claimを回ってしまいましたが、これは大失策でした。荷物は翌日の振り替え便に回されており(私にその連絡は届いていなかった)受け取れず、飛行機が振り替えできているかどうかも確認できないまま空港で朝を待つことに。「飛行機が遅れたらまず宿を確保すべし」というのが教訓です。
 振り替え便が正午発だったので、半日はフランクフルトの街を歩いてもよかったと後になって思いましたが、今回は一晩+半日を空港で過ごしました。


 結局、ウィーンを発つ朝にシャワーを浴びてから、自宅に着くまで41時間の旅程でした。しかしその時間も、普通に日本からウィーンに入った日にかかった時間とそれほど差があったわけではありません。それはひとえに、行き(日本発欧州行き)の飛行機がアラスカ上空を経由していくからです。まったく、もう昭和じゃないのにね。