科学情報≠科学

 先日、村松秀さんが大学院講義で来校されました。村松さんは、これまでに「生殖異変~しのびよる環境ホルモン汚染」(*1) や「史上空前の論文捏造」(*2)(→関連Togetterはこちら、「ためしてガッテン」や「すイエんさー」など、数多くのNHK番組の制作で中心的や役割を担われている方です。
 (*1)NHKスペシャル、科学技術映像祭 内閣総理大臣
 (*2)BSドキュメンタリー、同 文部科学大臣

 「科学番組はこうして作られる」と題した講義から、私の印象に残ったキーワードは、この2つです。

・大いに疑うこと
・「わからなさ」と向き合うこと

 村松さんは、私たちが「わからなさ」と向き合うことの提案の中で、「科学情報は科学なのか」という問いかけをされました。「学情報を伝えることと、その本質に切り込む科学を伝えることとは異なるのではないか」と。

 科学研究に関する報道は、その多くが「~~が明らかになった(わかった)」、「~~を示した論文が*****誌に載った」という形でなされます。しかし、実際の研究の営みでは、それらが分かるまでの長い時間「わからないこと」に向き合うプロセスが存在するのです。
 村松さんのご指摘の一つは、そのプロセスに対する評価を、科学者自身が忘れないでほしいという内容であったと思います。

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 以前に私は、若手研究者にあてて、私たちがあくまで結果で評価されること(→博士課程で特別研究員として活躍するために)や、自分が何で評価されたいのかへの意識(→論文が書けなくてはいけないのか)の重要さをここで書きました。一方で、結果だけにこだわることへの負の側面を、村松さんは指摘されました。

 研究者が、あくまで結果(成果)で評価されることは事実です。しかし、村松さんのメッセージの1つには、「研究結果に対する研究者(科学者)としての評価と、科学としての評価は違う」ことにも意識を置こうというものがありました。

 村松さんの言葉を借りると、「原因と結果の途方もない距離感」。これをつないだ(表に出る成果になった)ことだけでなく、その距離を縮めたり、答えのない分岐の先に「答えがない」こと示したことに対する評価はどうなのか。村松さんの問いかけは、つまりはそういうことであると思います。
 そしてこれを、メディアという「情報」を扱う立ち位置にいらっしゃる村松さんが、「科学情報だけが科学なのではない」という言葉で求めていたことが、私の心に強く響きました。

 科学のある側面が評価されているとき、その評価は一部の科学情報に対するものなのか。それとも、そのような情報しか提供できない科学全体に対するものなのか。まずはその点からだけでも、注意を払いつつ。
 今日から日本生化学会大会(→16日に若手フォーラム!)に参加しています。