日本橋・日銀の隣で知るお金の歴史

 いつも手元にあるのに、調べてみるといろいろな事実の出てくる「硬貨」。これにうちの小学生が、ここ一週間ほど止めどなく興味が湧いてきて楽しそうだったので、先週末は日本橋の日銀の隣にある貨幣博物館に行ってきました。


 ここに絵のある硬貨(銭貨)は元々、人がモノとモノやサービスを交換するのに、交換の割合(価値)を示すために作られたんですよね。それらはもとは金貨のように、それ自体に価値があり偽造されにくく壊れにくい材料で作られていました。しかし、希少価値の高いもので作ってしまうと作れる量に限界があるので、紙幣のようにその素材自体が高い価値を持たないもので作られるようになったんですね。

 今の貨幣は紙どころか、給与の振込から決済まで現金を使わない場面も増えてきて、紙ですらなくデジタルになったわけですけどね。しかし、紙やらデジタルやらというのはごくごく最近の近世(江戸時代以降)になってからの話。

 
日本では古代の硬貨として「和同開珎」(708年〜)が有名ですが、銭貨と呼ばれる金属製の硬貨が国内で作られたのは7世紀末から10世紀末(藤原道長の時代の前)までと、歴史的には決して長くなかったらしい。そうなのか。子どもの頃に学校で習った「歴史」では、「和同開珎」とか「永楽通宝」「寛永通宝」が出てきた覚えがあったので、硬貨はいつの時代にもそのときの政府に作られていたもんだと思っていましたよ。

 「和同開珎」に貨幣のある時代が始まった後、中央政府が貨幣を金属でつくらない時代が少しだけあり、そこでは米や布が貨幣として使われたのだそうです(1000~1150年ごろ)長距離を移動するときに食べるためや着るためでなく、それらを持参しなくてはいけなかったなんて大変なこと。

 藤原道長の時代の約150年後、平清盛日宋貿易の時代になると中国(宋、元、明)の銭貨が入ってきて、これが日本でも使われるようになりました。例えば、明の銅貨である永楽通宝(15世紀=1400年代)が有名。そうか、そもそも永楽通宝って日本で作られた硬貨ではなかったんですね。なお、鎌倉時代室町時代の間(1330年代)に後醍醐天皇が紙幣と銭貨の発行を計画するも、建武の新政の失敗でそれは実現しなかった、という歴史もあったそうです。後醍醐天皇が目指したシステムは先進的だったということかも。


 時代は進んで江戸時代のはじめ。徳川家康は全国の金銀鉱山の直轄化を進めて、貨幣の発行を幕府で制御する基礎を築きました。石見銀山佐渡金銀山などがその有名な例です。しかし、希少価値の高い材料で貨幣を作ったために、その生産を維持するのは幕府も大変で何度も改鋳といって、貨幣の質を変えることが必要にもなったんですよね。

 一方で地方でも、地域の経済(要はモノのやり取り)を回すのに幕府の銭貨では流通が足りないので、17世紀はじめ、つまり江戸時代初期から地域ごとに紙幣が使われ始めました。これが日本での紙幣の始まりということができるようです。そして明治時代に入って1871年に、明治政府が全国統一の貨幣単位「円」を導入して、このときに政府紙幣も発行し始めたのでした。

 そして近現代。「流通する貨幣」を意味する「通貨」の価値は政治や経済の状態によって大きく変わるので、それが歴史も動かし社会情勢に大きく関わってきました。2020年以降も不安定な状態が続いていますが、その話を含めると大きくなりすぎるのでここでは割愛。

 


 貨幣博物館の入り口近くに展示のある、ヤップ島(ミクロネシア)の石貨。直径数十cm以上、重さも数百kg以上あるということで、実際の日常生活で使われていたわけではないとのことですが、こんなに大きいものも貨幣として存在し得たなんて。デジタル決済できる今の通貨とはまったく違いますが、何かしらの権利の所持を示すのに使い得たものなのでしょう。

 同じように、今の社会の記録を振り返って「昔の人は買い物に紙(お札)なんて使っていたの???」と将来は言われるんだろうなぁ。