子どもの生活や健康についての調査報告や議論の場にいくと、インターネット接続デバイスに触れる「スクリーンタイム」の「長さ」を不安視した意見に触れることがあります。子どもたちがタブレットなどでインターネットに触れる時間が増えてきて、外遊びが減ったり睡眠のリズムが崩れたりするのが懸念されているようです。
しかし、私にはどうにも問題が「スマホやタブレットを使う時間が長いこと」であるとは思えません。
好きなように使っていることが問題なの?
その時間の長さが問題なの?
その時間が長いと気にしている人たちは、そもそも「インターネットがどうやって使えるもの」なのかを、ちゃんと示せているの?
長時間、動画や音楽を視聴しているだけというレポートがなされ、それが問題だと捉えられていることもあるようです。しかし、それも問題は「時間の長さ」でなく、「大人がインターネットの価値を示せていないこと」の方にあるように思えてなりません。
今の小学生は、今の中学・高校生が小学生だったとき以上に、インターネット接続デバイスの使い方を学校でも教えてもらえているようだな、とも思います。私が2020年3~5月の小学校「休校中」に周りの子どもを見て感じたのは、子どもがインターネットに依存することの不安ではなく、彼らがネットを使うことの良い意味での「可能性の大きさ」でした。
例えば小学校低学年の子でも、ローマ字が使えると入力ができると知れば、ローマ字をあっという間に覚えてしまったり。国土地理院の地図で色々な地点の標高がくまなく分かると知ると、それを見ては外に飛び出して実際の標高差を見に行ったり。そういった様子を私は見ていました。
子どもはときに、大人以上に新しい使い方を見せてくれるものだと思います。それとともに、子どもたちは「周りの大人がネットをそもそもどう使っているのか」の映し鏡であるとも思います。それはときに残酷なほどに。
大人には見えていなくて子どもには見えているものなんて、たくさんある。大人は大人になったからってエラくなったと思うなよ。子どもはネットでこんなことしかできないなどと、勝手に可能性を狭めるなよ。そう思うのです。
ネットに触れる “スクリーンタイム” の「推奨時間を設定」したり「使う時間を制限」したりするのでなく、「どう使うともっとワクワクするだろうか」を共有すること。同時にもちろん、そこで目に入る情報のすべてが正しいわけではないこと(それが「世界のリアル」ですよね)、顔が見えないからといって人を傷つけてはいけないこと、自分が嫌だと思う情報からはしっかりと逃げること。そういったことこそちゃんと伝えるべきなんだろうと思います。
ワクワクする使い方ができれば、「スクリーンタイム」は知的な価値ある活動になるはずであり、屋外活動や運動あそび時間を食い潰す存在にはなり得ません。むしろスクリーンタイムは、子どもの遊びの可能性を豊かにしてくれるものであるはずです。
だって、興味ある事柄や身の回りで知らなかったことについて、ネットが無かったら最低でも図書館に行かないと何も情報が得られない(から、時間が合わないうちに調べるのを忘れてしまう)ところを、今は手を動かせば手元にすぐに調べることができるし、メディアをうまく使うことで自分が何に関心があるかを外に見せ、それによって情報を集めることもできるのですよ。
そういったことを考えずに「スクリーンタイムの時間に制限を」などと繰り返していると、あと数年もしたら、子どもの方に「インターネットでそんなことしかできないの?」と一笑に付されることになるのではないでしょうか。というよりも、子どもの方がそう指摘できるようになるくらいには、彼らが可能性とチャンスに溢れた環境を手にしてくれることを望んでやみません。
そして私たちは、研究の成果がせめて何年か後くらいまでは生きるような問題設定や仮説立てができているかということに、注意を払えるようでありたいなと思うところです。
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2021年2月最後の2日間は、半分ほど子どもたちと公園にいながら、オンライン開催でのこの学会大会に参加し、以上の問題提起をしてきました。この学会参加についてはもう少し書きたいことがあり、続きとしてそれを書ければなぁと思いつつ、明日がもう3月であることに若干の焦りも抱いているところです。
良い年度末を迎えましょう。