最近の研究室生活(2014年末に)

 思えば3月に研究室を移転して、しかもその最中に留学生を迎えてなどと無謀なスケジュール(他にも無謀な試みは数知れず)をお許しいただいたこの一年も、もうすぐおしまい。昨日は、うちのラボでも忘年会でした。
 みんなの今年一年の経験や工夫や成果、それを言葉にして、互いに認め合えた雰囲気が、とっても良かったなぁと思える会でした。初めて、忘年会をやった価値を心から感じることができたように思います。気が早いですが、来年もそんな忘年会がしたいです。

 でも一言で表すと、こうとしか言いようのない一年でしたよ。

 大変だったよね。

 と。ま、もう少し正確に言うと、

 大変だったよね(笑)

 ですが。

 社会に出れば当たり前なんですけど、仕事なんて研究なんて、うまくいくかどうかなんてやってみないと全然分かりません。無限に勉強すれば満点をとれる、なんて類の仕事はありませんし、そもそも満点なんて存在しませんし。

 しかも、ラボで指導教員と呼ばれる私の仕事に、ルーチンと言えるものがまったくありません。こう言えばこうなるだろう、という見通しが事前にあったことが、どれだけあったでしょうか。強いてあげれば、階段を上がれば3階に着く、とか? いや、それ仕事じゃないし。そもそも、いま手元にある仕事の95%は、1年前にその存在の可能性すら知らなかったものです。
 いやいや、もちろんできる限りの予測はしてますよ。見えないものをうまく見えるようにする工夫も、ありったけの知恵を絞ってしているんですよ。

 それでもね。
 ま、それが大学教員ってもんなのでしょうけどね。

 そのことをよくよく認識した上で、大学院生は何を考えどう振る舞うのがいいのか。私自身が大学院生に何を伝えられるのか。大学とは全然違うんです。それを考えなくては、大学院の質保証なんてあり得ないよなぁと痛感する毎日です。

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 考えてみてほしいんですよね。上司にルーチンワークや予測可能な仕事が何一つない中で、自分はどう振る舞えるのか、何を担えるのか。
 あ、今年はこんな本も読んだっけな。
 ⇒身につけたいリーダーシップと大学院教育@『採用基準』

 で、その「予測が立たないこと」や「答えが見えないこと」に向き合うことがどんなに楽しいことか。正確には、それとどう向き合うことが自分に合っているのか。それをトコトン考えてほしい。
 自分なりの方法の「産みの苦しみ」が大変なのはよく分かります。私も大学4年のとき、研究室に入って半年くらいの頃、自分で設定したライン(“合格ライン”みたいなもの)すらまったくクリアできずに先が見えなくて、一晩大洗の港に逃げ込んで寝泊まりしたこともあります。
(海辺を朝走ったらすっきりしました。海が広すぎて。) M1のときは年末までエナジーが持たなくて、12月24日に研究室仲間から離れて、一人石垣島に引きこもったこともあります。(走ったり自転車に乗ったりで5日間動き回ったら、すっきりしました。小さな島でもあんなに広いのかと。でも後輩には悪いことをしました…。) D2のときは年末までかけらもエナジーが残っていなくて、体温が下がって数日以上寝込んだこともありました。

 病むほど考えたいことが目の前にあるってことは、本当に幸せなことだと思います。心から考えたいと思ったことを、考えて考えて考え尽くした先に、自分だけの、自分オリジナルのものが得られるからです。逆に、その方法でしか「自分だけ」のものは手に入りません。そしてその「自分だけ」という性質こそが、高い価値を生む源泉に他ならないのです。

 だからね、若いときの苦労は買ってでもしろ、という言葉は詭弁なんですよね。あんなのは無能な上司や親の言い訳です。
(注:若い人の苦労の大部分は、上司の無能によってもたらされます。ま、言い訳はさせてあげてください。でも、真に受けることはないです。) 苦労は厳選してするものです。私自身は二度と、余計な苦労も我慢もしたくありませんし(そう言える幸せに感謝しつつ)、そもそもできていませんし、自分より若い人にそれをしてほしい/するべきとも全然思いません。(避けられず苦労をかけてしまうことを申し訳ないとは、常々思っています。)
 ⇒苦労せずに卒業してください

 でも、苦労の大部分は本当は無用でどうでもよくて、自分がやりたいと心から思ったこと、それだけを考え尽くせばいいんです。そしてその先に、する価値のある本当の苦労が見えてきます。やりたいこととできることの差とか、その理想と現実のギャップとか、リソースの限界、とくに思考体力の限界とか。

 つまり苦労ってのは手段じゃなくて、結果なんですよね。しかも、それは自分で選び取ることの結果。自分が何をしたいかによって、したい苦労は選ぶことができるってことです。やりたくないなら、やらなきゃいい。以上!って感じです。

 で、そうした先に「やりたいこと」にこだわれる毎日があるのだろうと思います。私の場合は最近、やりたいことが溢れてしまっているため、1日あたり200時間
(※概算)それに取り組むことにしました。残りの7時間を睡眠に充てることにしています。それだけで1日が終わってしまうので、やりたくないことはすべて断るよう心がけています。

 何かをしたいと思ったとき、人生の長さは大きな武器になります。我が家の2歳児を見ていると、いつも改めてそう思います。
 50とか40とか32歳とかになったときに、あれをやりたいのにやれなかった、とか死んでも言いたくありません。だから、やりたいことは全部やりたい。少しやりたくないことも間違ってやっちゃった、くらいでちょうど良いでくらいです。人に気に入られたいとか気を引きたいとか、そういう無駄なことには人生の時間の少しも使いたくありません。

 大学院という場所を、凡人が「やりたいこと」にこだわれる力をつける場にしたいと願ってやみません。

 ただし、トコトン考えるという行為にはかなりの思考体力が必要です。なので、大切なのは自分の心身を第一に考えることです。私の場合は、研究に触れ始めて煮詰まったときに、数日休んで島に飛べたことは重要でした。あれがなかったら、別の他の何かを傷つけてしまったかも…。

 今でも、というより今年も、あぁやりたいけど無理だな…、などと思ったことも、正直何度かはありました。でもなぜかいつも、その度ごとに立ち替わりいろんな方々に、こうしたらうまくいくかもしれないよ、面白いかもよ、と励ましてもらって、何とかやってこれました。おかげで毎日、仕事先から家までの帰り道に次の作戦を考えながら、「明日はもうちょっとうまくやれるかも」とワクワクし続けることができました。

 この、自分自身で考えることのワクワク感。容易に解けない問題に遭遇したときのドキドキ感。それをもっともっと大切にしたい。
 加えて来年は私も、周りの人の「やりたい」気持ちをもう少し支えられるような、そんな人間になりたいです。

 2014年もあと2週間。