「情報を集め」て「決める」こと

 大学院生と最近の研究室生活のことを話している中で、こんな言葉が聞かれました。

 「間違ってもいいから、自分の力で思考することが大切なんだなぁと」(2014年6月19日)
 ―我々のラボでは、うちの講師がそういうスタンスであるのもあって、「まずは自分で考えよ。」という方針のもと、研究が進んでいます。

 と。はい、その通りです。

 で、もっと言えば大学院で経験すべき重要な経験の一つは、「自分で決める」ことなんですよね。この「決める」という行為は、「考える」とはまったく違う次元のものです。

 何か問題を解決することを目指していく過程で、自分で何か次の一手を決めてみる。そうしたとき、その結果がどうなるかはもちろん重要です。

 が、それ以上に「その結果を受けて、自分がどう何を感じるか」を逃げずに感じ取ることが、何より重要。
 科学研究という「未だ答えのないこと」に関して、この「決める」そして「感じる」という経験を重ねること。この経験が大学院生にとって、修了後にリーダーシップを発揮できるかどうかを左右する上で極めて重要です。

 その信念を持って、私は日々大学院生と接しています。

 だから私は、なかなか「答え」を言うつもりはありません。そしてそれは、先達の苦労なんて後追いするな、という私の想いと矛盾しないとも。

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 私は昨年、先に来たエジプトからの留学生と別れるときに、finest professorになれ、という言葉を贈りました。その意味は、少なくとも彼の国で前例のない教授になれ、ということです。
 自らの学生が自分を楽々と越えられなかったら、professor/teacherとしてアウト、とも伝えました。

 どうしたら学生自身に、楽々と越えていけるだけの力をつけさせられるかって?

 その人自身の下に、必要な情報が集まるようにすればいい。一つの方法に過ぎませんが、集める力がその人自身につけばいいのだと思っています。何かを教わりたいときに、相手に “是非こいつに教えたい” と思わせる人間になれ、と。

 そう思うのです。
 情報に好かれる自分になろうと。情報を使えて、それで「決められる」自分になろう、と。

 え、どうしたら、“是非こいつに教えたい” と思われるようになるかって? じゃあ、どういう人になら「是非○○を教えたい」と思います?

 今日はここまで。

議論は目的ではなく手段(2013年6月10日)
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