実在する「人たち」を知り「類型」から逃れる

 中国での過激で感情的な反日デモが報道されると、「あぁ、中国はああいう国なのだ、そこにいるのはああいう人たちなのだ」という印象が受け手に残ることになります。しかし、その印象は中国人の正確な理解と言えるでしょうか。

 イスラムの人の主謀したテロが報道されると、「あぁ、あの国はそういう人がいるのだ。それは“いる”どころか“多い”のかもしれない」という印象が受け手に残ることになります。しかし、その印象はイスラムの正確な理解と言えるでしょうか。

 それが事実の理解であることは、まず無いと言っても過言でないでしょう。

 過激な反日感情を持たない人の姿は、なかなか報道されることはありません。たとえ「感情的な反日家」よりも「そうでない人」の方が100倍多くても、報道の受け手には彼らが「1:1」つまり同数ずつ存在するのではないか、という印象を持たせることが往々にして起こります。
 イスラムの例にしても、他の国や地域、民族についての報道でも同様です。

 たとえ事実が「1:1000」であっても、それを「1:1」に近く見せかける恐れのあること。これが情報伝達や、伝える時間の限られた中で行われる「報道」の怖い部分です。

 報道は、「事実」ではなく「類型」を伝える性質があるのです。

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 先日まで、私たちはエジプトからの研究留学生を受け入れていました(→その記録)。これは、留学生本人や私だけでなく、彼と同じ時間を共に過ごしたうちのラボの学生にとっても成長の機会になったと確信しています。
 それは、学生の何人かが「異文化」から来た彼から、本人とその家族、友人についてまでの話を「聞く」という経験をすることができたためです。

 こういった経験は、必ず「異文化」の人を理解する上での基礎となります。その基礎を手にした人は、今後ニュースの見方もきっと変わることでしょう。世界の見え方が変わるといっても過言でないかもしれません。

 「1:1」、もしくはインパクトの強い「1:0」の情報が発信される報道に対して、実は「1:100」、「1:10万」なのではないかと疑うこと。それができるか否かが分かれるポイントの一つは、「100」や「10万」と言える市民について、どれだけのイメージを持っているかという点にあるのです。

 今回の研究交流で、うちのラボの学生の少なくとも何人かは、アラブ・イスラム出身の研究者とある程度の期間接し、向こうの「家族や友人」の話に触れました。
 その学生たちは今後、イスラムやアラブの関わるインパクトのある事件、過激な内容の報道に触れたときに、きっと以前とは違った印象や感想・疑問を持つことでしょう。きっと、自らが目にした「彼」と、彼との話を通して聞いた「人たち」のことを思い出すことと期待しています。報道により示される「類型」から、これまで以上に逃れることもできるかもしれません。
 そして私は、もっともっと多くの人がそういう経験を手にしてほしいと思うのです。

 異文化を理解し、お互いを尊重することができるか。それは、実在する向こうの「人たち」について、どれだけの情報やイメージを持っているかにかかっているのです。それを得るためにこそ、私は研究を通しての国際交流をどんどんしていきたい。私はそう願っています。

 それさえできれば、自分がどこで研究をするとか、留学をできるとかできないとか等ということは、私にとってはどうでもいい問題です。
 もちろん、各々の研究交流を楽しく進めて、研究もうまくいくように準備する、ということも忘れてはいけないことではありますが。