鎌倉と“鎌倉殿”と伊豆踊り子と小旅行


 先週末に終わった2022年のNHK大河ドラマは『鎌倉殿の13人』。見た目が派手でインパクトのある源平合戦から軸を少しずらし、源頼朝の直後の時代にあった泥々とした権力闘争(鎌倉時代初期)が描かれてきました。
 普通の人が脚本を書いても何の面白みもないであろう話を、三谷幸喜さんがコミカルな場面をちょくちょく混ぜ込みながら人の心を描き、ときに大げさにも描いて見せた話に惹き付けられました。でも大げさと言っても史書や教科書に載ってないだけのことで、当時の指導者の判断にも心の動きがあり、その言葉としての発露もあったはずとも思わされます。

 その先週末に鎌倉へ行ってきました。戦国武将や城が目立たない鎌倉時代をあまり知らない小学生でも、大河ドラマ館なら興味を持つだろう、ということで、久しぶりに行ってきました鎌倉。


 奥にあるのが、右大臣かつ鎌倉第3代将軍の源実朝が襲撃されてしまった場所でもある石段。この石段は長く描かれることが多いと思うのですが、そんなイメージより長くないと思うんですよね・・・。しかし凄まじい話。その場所が今は賑やかで人の溢れるここ。


 しかし、いつの時代も騙し合いや斬り合いが多すぎるのがヒトの性。ほとんどの人がただ目の前の幸せな生活を願っていて、皆で楽しく暮らそうと思って動く中でも、他を蹴落として何かを得ようとする者の欲だったり、強欲や恨みを暴力で晴らそうとする者の動きが社会を不安定化させてきました。「鎌倉殿の13人」の時代にも曾我兄弟の仇討ちがありましたし、後鳥羽上皇も鎌倉から権力を取り戻すために武力を使いました(そして、自身の側で戦わせた武士が敗走してくると、京での決戦による内裏の崩壊を避けるために彼らを見殺しにも)。

 そもそも源平合戦治承・寿永の乱、1180~85年)だって、朝廷が長く警護・護衛や辺境の防衛戦確保に使っていた武士(源氏や平氏、少なくとも1000年頃~)が、制御下に置けなくなったときに互いを追討させる判断をした(せざるを得なくなった)ために起こったこと。平安時代に貴族や寺社が、荘園という奈良時代以降の律令体制において本来ないはずの私有地を守るために必要とされたのも武士。大化の改新(645年)に先立つクーデターでも使われたのも武力。そもそも弥生時代(紀元前)から集落を守るのにも武装組織は使われてきたわけですけれど。

 世代ごとや地域ごとの力関係に変化があるたびに、暴力的なクーデターなどが起きていたらたまったものではありません。不毛な一発逆転が狙われる社会なんかでなく、理と秩序ある仕組みを作りたい。そう願ったでしょうか、『鎌倉殿の13人』の中心を張った北条義時の長男である泰時が、義時没から8年後の1232年に御成敗式目を制定しました。武家の指導による初めての法典とされているものです。それが足利尊氏による建武式目(1336年)や徳川家康による武家諸法度(1615年)にも影響を与えたというんですからすごいもんだなと思わされます。


 ”鎌倉殿” の大河ドラマ館の方は、劇の舞台のキラキラした部分が中心で歴史解説がイマイチ無かったのですが、キラキラしているぶん4歳の人(入ると言うと思わなかった!)も怖くなく楽しんだようでした。歴史の流れを知る方は、10歳の人が張り切ってこの本を買っていたので、読めるところから読んでみてくれたらいいなと思います。


 今回は鶴岡八幡宮の他にも、“鎌倉殿” を通してゆかりの場所がいくつか気になったので、歩いていくつか回ってきました。


 元八幡(元鶴岡八幡宮)とも呼ばれる由比若宮。源義家(頼朝の四代上)の父にあたる頼義が、前九年の役での奥州平定後の1063年に石清水八幡宮を密かに鎌倉に勧請したものと伝わり、今の鶴岡八幡宮の元ともされるらしい。由比ヶ浜から陸側に少し奥に入ったところにあります。祀られているのは軍神八幡神とされる第15代の応神天皇ら。


 由比ヶ浜。今は砂浜の広がる海浜公園になっていますが、1213年には和田合戦の主戦場になった場所で、明治時代の道路工事の際にたくさんの人骨が掘り出されたらしい。マジか…。なお、行ったときは海からの強風で浜の砂が飛んできて、周りはなかなか大変なことになっていました。


 鶴岡八幡宮の東隣にある大倉幕府跡。幕府を開いた源頼朝が御所を置いた場所(1180年~)なのだそうです。今は小学校があり、そこに通う人たちがまとめた資料が掲示されていて楽しませてもらいました。
 ここに御所があったのは45年間で、義時没(1224年)翌年に政子も没した1225年の末以降は宇都宮辻子幕府~若宮大路幕府と若宮大路のすぐ東側に遷されたようです。


 大倉御所のすぐ北隣には、源頼朝墓に、


 第2代執権の北条義時墓(ともに法華堂跡)。ここにはなんと、宝治合戦で北条氏らと争った三浦氏が立て籠もったというやぐら(洞穴)までありました。3代執権・北条泰時の亡くなった5年後(先代の義時没からは23年後)のこと。問題の解決に武力を使わない時代までの道は遠い・・・。

 そんなこんなで10km以上歩いて鎌倉を楽しめました。鎌倉からの帰りの電車は大混雑するのが常なので、大船で脱出して東京までの帰りは踊り子号で。踊り子の方も空いていることはなく、指定席は満席。それでも大混雑にはならない分、帰りは寝るかと思った小さい人たちも車窓を楽しんで元気にしていました。

 さて、大河ドラマが終わったということはもう年末!