足尾銅山―産業と環境問題と紅葉めぐり

 2022年11月最後の土曜日に、栃木の足尾銅山へ日帰りで行ってきました。鉱毒事件があったことであまりに有名な足尾ですが、遺跡の展示と銅採掘の貢献から、起こってしまった環境汚染の原理まで一つのストーリーとして理解できる場所で、かつての産業の様子がよく遺る素晴らしい場所でした。


 通洞跡の観光施設「足尾銅山観光」に入園すると、まずトロッコで通洞の中に案内されます。アプト式機関車の支えられて急坂を下りた後、トロッコに乗ったまま通洞の中へ。事前の案内がない中でそこを過ぎてしまったのですが、雰囲気が抜群なだけに、構造を知ってからまた乗るとより楽しめるだろうと思います。


 中で見られるのは、採掘をしていた当時を再現する展示だけでなく、そこにある沈澱銅に、


 硫酸銅の溜まった跡(青色)。

 1610年に銅が見つかって開かれた銅山ですが、江戸〜明治〜大正と産業を支える中で1912年、「安全専一」という標語がここで使われ始めました。今の「安全第一」の前身にあたる語であるそうです。重労働の中にも、労働者の安全を守ろうという意識が言葉として表れたのがようやくこの頃、ということですね。

 出口にある売店では、地元のおばちゃま達が古貨幣のトリビアまで教えてくれるので、10歳の人と思わず聞き入ってしまいました。4歳の人はきれいな音の鳴る鈴をゲットして楽しんでいました。

 「足尾銅山観光」を回った後は、4歳の人が案内を見つけて行きたいと言った足尾環境学習センターへ。通洞から北の川筋を奥に進んだ方にある所です。


 わたらせ渓谷鐵道の終点、間藤駅。JR足尾線としての営業を1987年に終了したときに一度廃止となり、1989年にわたらせ渓谷鉄道として再始動するまでに2年の間があったらしい。てっきりすぐに移管したものと思っていましたよ。

 間藤駅が終点の同線ですが、1973年に足尾銅山が閉山した後も1987年(国鉄民営化)までは、足尾本山駅という貨物駅がこの一つ先にありました。それがあった所が、銅の製錬所があった本山坑(こちらも稼働は1987年まで)。


 この右奥に見えるのが足尾銅山製錬所の大煙突で、


 周りには今もハゲ山ばかりの地域が広がります。足尾鉱毒事件って排水で下流が被害を受けた話ではなかったの? なぜ山が? と思ったのですが……


 様々な重金属を含んだ水が渡良瀬川下流の太田や佐野、古河などまで農地を汚染してしまったのが、鉱毒水の問題。それと別に、銅の製錬で煙突から出ていた亜硫酸ガスの煙が周りの山の木をひたすらに枯らし、山の崩落や水害を招いた(これが鉱毒を含んだ土砂による下流の被害を拡大した)のですね。上の地図で、銅山の坑道があったのは赤丸より南東(右下)の方ですが、山への影響が大きかった地帯は西に広がっているのが分かります。

 この製錬で発生する亜硫酸ガスから、工業材料として有用な濃硫酸を生産するようになったのは1956年以降で、残念なことに足尾銅山の操業末期になってからのこと。今も鉱山跡から出てくる水は、足尾で処理をしないと下流に流せないこと。そんな歴史から今に至るまでの状況を、本山坑より奥の銅(あかがね)親水公園にある「足尾環境学習センター」でボランティアの人が熱心に教えてくれました。最盛期は坑道の入口付近に集落が町として栄えた場所ですが、今はその集落のほとんどが解散し、産業の遺産を伝える町になって修学旅行生なども迎え入れているようです。


 (銅とともに掘り出された孔雀石や紫水晶。)

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 こちらは足尾銅山から車で20分ほど南(下流)にある、草木ダム横にあるドライブインよもぎまんじゅうが美味でした。


 草木ダム。こちらは紅葉もきれいで嬉しかったのですが、足尾の本山坑跡から15kmしか離れていないのにこの景色の対比がまた……。

 この草木ダムができたのが1976年ですが、そのときにJR足尾線(今のわたらせ渓谷鐵道)の線路の一部が川の近くから山側に移されました。ダムの少し南側に、移される前の線路が通っていた道が残っています。


 かつて線路の通っていた「琴平トンネル」。


 そのすぐ横の「萬年橋」。

 足尾までは今回、仕事の都合で片道3時間弱の旅程を日帰りで往復しましたが、周りに見どころも多そうなのでまた泊まりでゆっくり来たいと思います。