畝傍御陵(橿原)から南朝方の山城めぐり(高取・千早)

 「橿原神宮」の名前は歴史や地理を知らなくても、近鉄線を知る人なら必ず見聞きしたことがあると思います。私はそこがどんな神社なのかを正直なところ知らなかったのですが、何を隠そう「初代」の神武天皇が祀られている神社。
 それを、たまたま近くに泊まって知ることができたのでお参りしてきました。小中学生に日本の歴史で神武天皇飛鳥時代も教えるなら、神武天皇の活躍したとされるのが「どこでなのか」も知っていたかった!


 その場所は飛鳥のすぐ隣。橿原神宮前と飛鳥は、近鉄吉野線で3分(2駅)で行き来できます。「欠史八代」の時代の伝説ゆかりの地で、地図を見ると畝傍御陵の他にもその八代のものとされる陵も、周りに遺されているのが分かります。まさに “神秘” という言葉がぴったりの場所。


 橿原神宮前の北隣が「畝傍(うねび)御陵前」駅で、この畝傍御陵こそが神武天皇陵とされている場所。神武は日向(宮崎)からここに移り、橿原宮で即位したとされています。ちなみに神武天皇のときの皇后とされるのは媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)。伊勢の「五十鈴川」にその名前が残っています。

 畝傍御陵の周りを歩いていると、カラスを見るたびに「八咫烏!?」とわくわくしてしまいます。即位前の神武は、八咫烏の助けを受けてこの地に入ったとされているんですよね。さらに、東に「天香久山」への道案内なども見られてミーハー心がうずきます。

 今回は橿原から、「益田岩船」というスポットを見つけ、ここは修学旅行なんかで来ても絶対に行かないだろうということで見に行くことへ。場所は、サイクリングする人などの多い飛鳥の原のすぐ西側でした。道端にでもあるだろうと寄ったところ、行ってみるとそこは茂った竹林の丘。予想外に傾斜のある道を10分ほど歩いたところで・・・


 現れたのは、少なくとも7世紀以前のものだという巨大な花崗岩でした。


 この岩には、近く見積もっても1400年前(600年代)に何かの台座に使おうとしたものの、使われなかったらしい痕があるようです。そんな時代のものがゴロゴロしているというから飛鳥は面白い。日本の文明の始まり感がそこらにゴロゴロ。

 ここから高松塚古墳や、四神(青龍、朱雀、白虎、玄武)で有名なキトラ古墳を横目に、大和でもういっちょ豊臣に縁のある高取へ。大和郡山城の詰城、つまり有事には最終決戦の地とすべく築かれた山城の跡を目指しました。


 壺阪寺からハイキング。往復5km・約2時間(山頂での散策時間を除いて)。4歳の人もたくさん歩いて、どんどん伸びる体力を実感しつつ。


 ゴールデンウィークの新緑眩しい、日本 “三大山城” の城跡。この奈良・高取城の他は、岐阜・岩村城と岡山・備中松山城と並び “三大山城” と言われるそうです。


 何をもって「最強」なのかは分かりませんが、足元には、廃城になったときから無造作に置かれたままと思われる瓦がたくさん転がっていました。そこに金箔がついてはいないかと10歳の人が気にしていましたが、歩きながら見ただけでは残念ながら見つからず。

 なお、城郭として整備されたのは豊臣秀長大和郡山にいた時代だったものの、元は南朝方(鎌倉幕府が終わった後に、足利尊氏と覇権を争った後醍醐天皇方)の越智氏の出城として築かれたという歴史があるそうです。

 さらに葛城山(これも古代からの地名)の南側の水越峠で「大和」(奈良県)を出て、「河内」(大阪府)の山城・千早城へ。


 「三大山城」より険しいのではないかというつくり。傾斜がきついだけでなく、標高も「三大山城」のはずの高取(583.6m)より高い634mの場所にあったようです。


 鎌倉時代室町時代に挟まれる時期に活躍した後醍醐天皇を守って戦った楠木正成の城。人形を囮(おとり)に使った正成の作戦を、ちょっぴり再現したモチーフが置かれていました。

 山道だけで10kmくらい歩いたこの日。その疲れからも小さい人たちは日付を跨がずに回復し、夕方には大きな滑り台のある公園で1時間遊んでから夜を迎えたのでした。人の伸びる体力を実感するゴールデンウィーク
 泊まるホテルに夕方着いたときの眺めに、初めて見るものがあり大興奮だったんですよね。この千早よりもう少し西の場所ですが、それはどこだったでしょうか? 続きます(たぶん)。