宇陀松山と大和郡山で日本書紀以来の歴史の豊かさを感じる

 連休の合間の5月2日は、東京から名古屋まで夕方すぎのうちに飛んで、翌朝から奈良の南の「大和」を駆け抜けてきました。

 名古屋から伊勢方面に向かう人たちの渋滞を回避しながら、木曽川の広さに感激したり2年半ぶりの伊賀上野を遠目に見たりしてまず来たのは宇陀松山。


 新緑の眺めが最高でした。江戸時代初期には破却されたという城跡の丘から。

 西麓に残る城下の方も、メジャーに観光地化されていないぶん落ち着いて良い雰囲気の町並みでした。


 「松山西口関門」。松山というと、他にも伊予(愛媛)の松山に備中(岡山)の松山。「松山」のいう地名が日本に点在するのは、松竹梅の筆頭にもあるようにやはり日本で松が大切にされたからなのでしょう。

 一方の宇陀松山の「宇陀」はというと、これがもっと歴史のある名前。日向(宮崎)から熊野を経てここに入った神武天皇の時代から歴史に現れ、古事記にも万葉集にも登場する地名で、日本書紀にも菟田(うだ)という表記で現れるということで驚きです。このエリアに位置する榛原が、昔の「大和(国)」の東端で伊勢への通り道でもあったというので、その歴史の古さも納得です。

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 今回はここから、道案内で見える室生寺にも長谷寺にも法隆寺にも寄らずに、順慶が有名な「筒井」の名が地名にあるなどとわくわくしながら大和郡山へ。


 宇陀松山に続いて豊臣に縁があり、秀長が居城にした歴史もある郡山城では、追手門に五三の桐が見られます。復元のときに大切にされたというこの門の雰囲気が良い。




 2010年代に改修された天守台跡に登ると、東に佐保川沿いの奈良盆地の広がりが見えます。北は薬師寺平城京跡に、奈良の若草山まで。奈良市内では見えない盆地の広がりと歴史の豊かさを感じさせます。天理の東で名阪国道でも続く急坂や、大阪に向かう道のど真ん中に生駒が鎮座するイメージからは意外なほどの広さが、この大和郡山で感じられました。

 西に金剛山、南は吉野の手前に橿原神宮や飛鳥まで広がる盆地。その眺めに、NHK大河『麒麟がくる』で松永久秀(演:吉田鋼太郎さん)の言っていた「わしは大和が好きじゃ」が納得でした。

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 傷んでいた天守台石垣を改修するときの調査で見えたという、秀長の時代の築城の様子などの展示も、現地の資料館(柳沢文庫)ではビデオ(盛り沢山)で楽しめました。

 宇陀の歴史については、これらのページが面白かったです。
宇陀松山城@「いかす・なら」

 大和郡山から南には、近鉄線の行先でよく見る「橿原」があります。ここもまた、「奈良・飛鳥」と括られてしまいがちな首都圏からの修学旅行では見えない歴史が見える場所でした。続きます(→つづき)。