不審者かも? それちがうわ。

 先日、保育所や小学校近くの道で不審者がいるから対応を要請したいという相談を、ある年配の方から受けることがありました。少し動きが違う人がよくいることは知っていたので、姿形を挙げてこの人かなと聞いたら、その人ですとのこと。

 あー、と思いました。ちがうわ。その方、大人の発達障害の人で心配ないわ、と。

 今回のケースでその方は、たしかに目線やコミュニケーションが見慣れないパターンなのがすぐに分かってしまう人でした。向こうから挨拶をすることがあまりないし、何も言わずにこちらに付いてきているように見える歩き方をするときもある。じっと(十数秒間以上)こちらに目線を送ってくることもある。

 しかし、今回私が「その方は訴えるべき不審者ではないです」と答えたのは、私がすれ違いざまに何度も話している方だったからでした。一度会えば印象には残る上に、しばしばお見かけするその方に、初めにこちらから挨拶をしたことがありました。その私に対して、次からは向こうから挨拶をしてくれるようになっていましたし、うちの小さい人がゆっくり走る車(自転車だったかな)の前に飛び出してしまいそうになったときに「あ、あぶない!」と注意してくれたこともあります。
 その経験は、私がその人を不審者ではないですと答えるに十分なものでした。

 ってか、向こうから挨拶しないという冒頭の年配の方、つまり自身からは挨拶したことがないってわけよね。それで向こうが不審者かもって、それどーなんだろ。

 おそらく、目線や動きの少し変わったその方は、周囲からの目線を感じて逆に警戒をし続けてしまってもいるのでしょう。そのために、なかなかその方から挨拶はできなくなってしまっている。だけど今、少なくとも私に対しては(たぶん)そうではない。そんな方に対して、変わった部分を取り上げて不審者として接してしまうこと。それを何とか止める方法はないものかと思うところです。
 そんなことを考えながら冒頭の場面で少し話した末に、その場で返した結論は「脳の発達障害で予期しない動きがあるのが心配になりはする方ですが、その分も周りが見ていてあげるべき人のではないかと思います」ということでした。

 向こうから挨拶しない人でもこちらからすれ違いの挨拶だけでもしておくことで、互いのコミュニケーションが変わることもある。
 逆に、決して人を傷つけることのない人を不審者扱いして遠ざけて、その人に疎外感を与えて良いことなんてあるのだろうかと。コミュニケーションの苦手な人でも声の掛け合いに入れるようにして、それぞれの人が気持ち良くそこにいられるような環境が、悪意ある不審者を遠ざけられることになるのではないのかとも。

 しかも、逆に誰かがいわゆる「悪意ない人」でも遠ざけられることが許されてしまう環境って、つまりは本質的に誰でも意図的に遠ざけられる可能性がある環境と同義だと思います。そんな環境が定着してしまったら、いつでも望まずして自分が遠ざけられる可能性ももちろんある。いくらマイノリティの立場になったことのない “強い人” であってもそれに気づかないとしたら、それは余りにも想像力が足りないのではないかと私は思います。

 誰でも不意に遠ざけられることの許される雰囲気が、多くの人の望むものなのか。そうでなく、悪意のない様々な人が気持ち良くそこにいられるような雰囲気。それが周りにあることを私は望むところです。



 と、ある朝のコミュニケーションから抱いたもやもやから長々と書いてしまいましたが、喫緊の問題としては毎日道中、交通事故に遭わないよう気をつけたいと思います。小さい人も一緒に「みぎ ひだり みぎ」のち爆走。