日本の研究環境を「ガチ議論」@BMB2015

 今週参加していたBMB2015、優れた研究発表や面白い演題、価値あるディスカッションも多くできて刺激になりました。ペリサイト(周皮細胞)、オートファジー、光イメージング、タンパク質構造・・・自分の研究もこういう風に検証を進めていきたいとか、この観点で進めてみようなどと思う場面がたくさんありました。

 3日目の夕方過ぎには『日本の科学を考えるガチ議論』。研究者はポストや研究費の配分に不満を持っている。それを改善していく策を見出せないか、という企画もありました。
 核になった議題は、もう業界でよく聞く話になってしまったこの2つ。

●ポストが全体として少ない
 → どこから「予算」を呼び込むのか?
●有期ポストの多い業界での、責任ある雇用とは
 → 研究スタッフにどんな「次」を見せることができるのか?

 ※それができずに問題が起こるケースを見ながら、こんなエントリを以前に書いていました。自戒も込めて。
 ⇒エラくなる前に「人」が見えるようになる経験を
 ⇒続けるためではなく、終えるために

 今日はその状況をサクっとまとめつつ、私の普段考えていることを合わせて書いておきたいと思います。(というつもりが、まとめ無しで私の雑感だけになったかも。)

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 アカデミア研究に「予算」が足りないという話題。これが語られると、競争的資金の配分の仕方が良くないという話になったり、「次」のポスト拡充のためには大学の運営費を補助・交付を、という話になることが多いようです(大学によるとは思いますが)。

 なんかこれ、どうなんですかね。

 結局、予算の確保にしても、スタッフの次のキャリアをどう示すかについても、その対象をどう広げて考えられるかということなのではないでしょうか。つまり、その対象を多様にするなり、開拓するなりということをせずして、研究環境が良くなることはないのではないかと。

 問題の要は、大学の研究教育環境を良くするのに、リソースが複数の面で足りていないことです。そうであれば、大学などの研究機関から生み出せる価値と需要とをつないで、リソースを獲得するしかないと思うんですけどね。
 「需要とつなぐ」と言うと、研究をもっと出口志向に偏重させるのかという声が聞こえてきそうですが。どんなに「出口」から遠い基礎の研究であっても、その価値の売り方は様々あるはずです。
(そう思うのは、私が “高尚な” 研究者ではないからなのかもしれませんけど。)

 価値と需要のつなぎ方というのは様々あり得ます。なので、手元の案を出し合って得た賛同者でリソースを得るプランを練ってマーケティング、とかしていきたいと思い、私も研究の傍らで少しずつ動いているところです。が、すべてが成功するわけではありませんし、まったく上手くいかない可能性もゼロでないのは確かです。同様に上手くいかない経験を多々している研究者は、少なくないであろうと思います。が。
 だからと言って、予算を含めたリソース獲得方法の選択肢に、価値をつなぐ対象を開拓していこうという話があまり挙がらない組織やコミュニティは、これから発展するようには思えない気もします。

 んで、この辺は「議論」してる場合でなく早いとこ何とかすべきだと思うのは、結局問題のしわ寄せが、そこで学びたいと思って大学院に来ている学生にいってしまう例があまりに多いからなんですよね。
 いろいろな経験の機会を作るには、お金がかかることは間違いありません。でもだからこそ大学(院)の研究者は、研究を含め何を通してどんな教育をするのかを、もっと明確にしなくてはいけない。そして、その教育が可能な環境を持てているかということも合わせて。

 学術論文(原著や総説)すら書けないようでは知を教えることはできない、ということは確かであるものの、大学の研究者は良い研究をできるということだけでは、良い教育をできていることになりません。研究を通してどんな成果を挙げられるのかということと合わせ、それがどんな教育機会を生み出せるのか、その価値が何とつながっているのかということについても、もうちょっと批判的に考える場面が多い方がいいのではないかと私は思うのです。

 最後に、アカデミア自身が研究教育環境 “全体の” をもっと良くできるのか、ということについてもう少し。

 科学の普及活動、学界外の人との対話、ロビー活動・・・など、研究者にとって「もっとやった方がいい」と言われていることはあれど、「そこに割けるリソースが足りない」のも事実です。個人的には、この「もっとやった方が」と言われることの実践をアピールする大学教授でも、実際に仕事の場を見ると忙しさを嘆いているだけだったり、そのラボの学生を見ると学生自身が語る言葉を持っていなかったりする例も見ることがあり、複雑な気持ちです。

 若干思い切った言い方をしてしまうと、大学の研究環境はもうガツンと組み直しちゃった方が良いんじゃないかと思います。個人的には、環境を良くしたケースレポートは少なからず聞けど、それが(この国の)アカデミア全体を変えているという実感がありません。
 そもそも、大学の研究者全体が何か新しいこともするようにしたり、新しいものに目を向けたりしようというのであれば、同時にやめるものをやめる、ということを考えなくてはいけないはずです。しかし、なかなかそういう話はできずに「できる人がやる」という話にしかならない。

 環境を大きく変えるには、アカデミア、すなわち学界は大きくなりすぎたようにも思います。何か仕組みを変えなくてはというのは正論でも、その仕組みはもう、すぐには変わらないと思われる状況。学界がそれ自体に様々な利害関係を内包することは、それが仕方ないことだと思う一方で、変化を妨げる原因になっているとも思います。

 BMBでは本当に面白く、すごいなぁーと思わされる研究がたくさんありました。
 ただ、大きな研究には必ず、バックに大きな公的研究費の支援の存在が
(もちろんそれが支援のすべてでないと言えど)見えることも事実でした。それは決して悪いことではありませんが、そういう研究者が集まっているがため、アカデミア研究のリソースの話になったときにどうしても公的研究費が… という話になってしまう。

 できる人がやる、しかないのか。システムや前提を変えられないのか。BMB2015での「ガチ議論」は現状認識の共有には良かれど、進まない議論にフラストレーションの溜まる時間でした。と言いつつ、予定を1時間超過した3時間の企画はあっという間に感じられ、企画自体は参加して有意義なものでしたが。

 研究者は一~半世代ほど前の常識と、今のそれとを分けて捉えられて実践できるか、ということが問われていると思います。シニアの議論に若手はどんどん耳を傾けて、疑問に思ってほしい。「ああいう風になりたい」という気持ちと「ああはなりたくない」という気持ちとをしっかり共存させて、今できることをしてほしいし、私もできることをしたい。

 大学はもっと良く、魅力的な場所になると思うので、そう思って研究教育環境を変えられる人との縁を大切にしたいと改めて思うところでした。

大学院生の教育環境とキャリアパスを「ガチ議論」@第54回生化若手夏学(2014年8月29日)
U-runnerの大学院教育スタンス(2014年11月14日)

 とりあえず今回はこの辺りでおしまい。

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 夕食を食べずの企画の終了予定時刻が20:45というのは難でしたが、実際の終了時刻はそれ以上の21:38。終わった後は、タクシーの運転士オススメの魚介のお店で海鮮丼をいただきました。



 おつかれさまでした。