勝負したいことで勝負できる所へ

 一つの仕事をするにも、能力として様々なものが必要であることは常です。いったいその能力は、どのように評価されるのでしょう。
 その答えを私は持っていませんし、そのためにここには答えも書けません。しかし、どのように評価されるのだろうか、といった不安との向き合い方について、ここにちょっと書いてみたいと思います。

 仕事に必要な能力はどのように評価されるのか、ということは、アカデミックの研究職のことでも話題に挙がります。よく言われるのは、“研究をするにはいろいろな能力が必要だけど、アカデミックポストに就く場合、結局業績評価は論文リストなのか?”ということ。
 これについては、以前にも少し書きましたが(→研究者としてやっていくには、論文が書けなくてはいけないのか)、ここでは「『何で評価されたいのか』という問いに対する答えは明確に持たなくては」の部分をもう少し掘り下げてみます。

 例えば、私の後輩が訴えていたこの不安(不満?)。

 「論文数や被引用数、IF、H-indexで評価するしかないん?」

 これを見て、私は改めてこう思いました。そういう項目だけで評価されたくない人は、そういう項目だけで評価されるところに行かなくて済むわけで。そういう項目だけで評価したい人たちがそうしてくれている分には別に良いんでない? と。今ある仕事の形だとか類型だとかなんて、10年後にあるとは限らないわけですし。

 私が、評価項目が限定的であること以上に不幸だと考えるのは、自分自身の評価されたいと思うポイントでは評価されない場所に身を置いてしまっている、というケースです。それでは報われることを実感できないでしょうし、救われもしないよね、と思うのです。そういうケースでは、身を置いている場所の評価項目を変えてくれと訴えるよりも、身を置く場所自体を評価してほしい項目で評価される所に変えるべきでしょう。

 評価されたいことを評価されない状況であれば、それが評価される場所はどこにあるのか、そういった場所に身を置けないか、そういう場で自分が本当にやっていけるのか・やっていくにはどうすれば良いのか。そもそも、そんな場所がどこかに存在するのか。無いのであれば、そういった場所を自分(たち)が作れないか。
 それを考えた方がよっぽど建設的でない? と思うのです。

 今からいろいろな仕事に就こうとしている学生さんとか、どう思います?

 逆に、他の場所に移りもせずに「こんなに○○を頑張っているのに、それはまったく評価も考慮もされない」と言ったりする人とか見ると、うだうだ言うなよって私は思っちゃいます。うだうだ言ってないで、それが評価されるところに行きなよって。それだけの力をまずつけなよ、って。

 ・・・こんなこと言うとまた叩かれる。
 (※学生のうちは、何言ってもいいと思うよ。)

 仕事の評価のされ方なんて、職種や業種どころか、仕事場次第で様々です。大学から社会に出ていく後輩たちを見ている身としては、皆が「評価されたいポイントで評価される」場所に巣立っていってもらいたいと、心から願ってやみません。