研究の“出口”を求めて

 再びやってきた年度末、卒業論文のシーズン
 大学院生や卒研生の研究発表を見ながら、以前よりも私自身がこんなことを、自然と意識して言葉にしていることに気がつきました。

 「手元のデータをどのような論理に乗せたら、どこにインパクトをもたらすものになるのか」、「何をターゲットにした場合に、手元に何が足りないのか」

 ある視点でデータを見たら何が言えるのか、どんな背景情報が必要で、何は余計なのか。それを踏まえて論述をすること。

 それを可能にするために、科学的な正確さを判断できることはもちろん「必要」です。しかし、それはまったく「十分」ではありません。科学的な論理立ての話を明快にできれば、必ずしもその活用の可能性も語れるわけではないことからも、それは誤りではないでしょう。
 ここには、“科学的に正確に” 説明するために論理立てた説明や記述をしたりするのと、また違う思考の能力が存在するのであろうと思います。

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 私は、「研究の“出口”への意識を明示するように」と教授によく指導されてきました。しかし、気がつけば最近、それを言われなくなっていました。諦められたのか、“出口” を的確に示せるようになってきたのか。できれば、後者であるといいと思います。

 “出口” を的確に見定めるために、アカデミアに身を置きながら、いろいろな現場を見たい。いろんな人の、いろいろな分野の中での論理を知りたい。

 そう思います。

 あとは、高いレベルを目指せる人にはそれだけのレベルをモノにしてほしいものです。勝手な想いだとは思いながら。

自分の関心の周囲にあるものに意識を
あくまでも王道を