身近なリスクを定量的に考えよう-『「ゼロリスク社会」の罠』

 佐藤健太郎氏著の『「ゼロリスク社会」の罠』(光文社新書、2012)を読みました。

 最近10年間ほどの間に話題になった「危険」「リスク」「健康被害」について一つの“総括”とも言える解説がなされており、現代のリスクの状況を把握するのに必読の書です。



 いろいろと勉強になった中で、私が注目したのは次の3つです。

 ①比喩の使われ方
 ②判断を狂わせるのはリスクの「読み」間違えなのか、「理解」の誤りなのか
 ③リスク回避に必要なコストの変動はどのように考慮されるのか

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 ①比喩の使われ方

 本書には多くの比喩が出てきます。これは、著者のブログでもよく見られるもので、著者の真骨頂とも言えるものではないでしょうか。
 私は本書を読みながら、比喩の各々がリスクを論じる上で妥当かどうかについて思いを巡らせました。私が、個々の比喩の是非に言及するのは畏れ多く、ここにも書きません。しかし、比喩の使い方はどこかで関心のある人と議論をしてみたいと思います。

 比喩は、科学コミュニケーションやリスクコミュニケーションの過程で「わかりやすく」伝えるための武器になるものとして、重要なポイントの一つでもあります。しかし、殊にリスクを解説する際の例え方には注意すべき点もあるのではないかと、私は思っています。
 その辺りを、本書に散りばめられた面白い比喩を題材にして、改めて考えたいものです。

 ②リスクの判断を“狂わせる”のは、リスクの「読み」間違えなのか、理解の誤りなのか

・恐怖心
・制御可能性
・自然か人工か
・選択可能性
・子どもの関与
・新しいリスク
・意識と関心
・自分に起こるか
・リスクとベネフィット(利益)とのバランス
・信頼

 本書では、「人はなぜ、リスクを読み間違えるのか」の理由として、ハーバード大学のグループが示した上の「リスク認知10因子」を紹介している他、

・本能的リスク判断
・確証バイアス
・バイアスのハウリング
正常性バイアス

などを挙げています。

 しかし、これらは本当に「リスクの読み間違え」の原因としていいのでしょうか? 私には、そうと言い切れないように思えます。

 リスクは、本書でも述べられているとおり、

「起きたときの影響の大きさ」(ハザードの程度)×「起きる確率の高さ」

と定義されます。私が疑問に思うのは、対象となっているリスクが「制御可能性」や「選択可能性」が低かったり「新しい(未知の面が大きい)リスク」であったりすると、その「起きる確率の高さ」に不確実な部分があるのではないだろうか、ということです。

 このようなリスクを大きい側に評価した場合に、結果的にそれは起こらないことは少なくないでしょう。しかし、後になって「このリスクは実際にはもっと小さかった」と結論づけることはできても、誰が“現段階で”その「リスクを読み間違えている」と判断できるのでしょうか。どのようにその判断の責任を分担できるのでしょうか。これらが、私の知りたい点です。

 なお、実際にはこの「起きる確率の高さ」の見積もりのブレを考慮して、リスクの程度は「不確実性係数」により安全側に見積もられています。私は、リスクの扱いに関して問題なのは「リスクの読み間違え」よりも、「安全側にリスクを評価する係数」の意味やその妥当性がよく説明・議論されていないことではないかと思っています。
 本書では、これについての説明が第3章の中の「基準値の設定――念には念を入れて、極めて厳しく」で取り上げられています。

 リスクの評価者も管理者も、それを広報する人も、「安全側にリスクを評価する係数」の妥当性や重要性をもっとよく理解すべきではないでしょうか。これが、私がリスクの問題で重要視しているポイントの一つです。

 ③リスク回避に必要なコストの変動はどのように考慮されるのか

 もう一点、私がこの問題に関して重要視しているポイントは、「○○という事象に対して、△△の基準に従い□□という措置を取ると、コストが**億円かかる」といったトレードオフの問題です。
 たしかに、あるリスクを回避するために膨大なコストをかけすぎては、他のリスクを招く結果になってしまうでしょう。しかし、多くの場合に議論されるのは、「今」そのリスクを回避するための費用に過ぎません。

 新しい技術が産み出されて生活が便利になるのと同じように、技術革新により、あるリスクを回避するためのコストは下げられる可能性があります。(逆に、時代が変わってコストが上がってしまう場合もあるでしょう。)
 このように、「工夫により回避にかかるコストを減らせる」リスクを「今後、長期的に」どう対処していくかということは、「今」の技術に基づいたトレードオフの算出だけでは結論づけられないのではないでしょうか。
 私は、“工夫”次第で避けるコストが下げられるリスクについて、この変動幅を踏まえたトレードオフの議論を聞いたことがありません。リスク回避のコストが変動する可能性を踏まえた、トレードオフの見直し、リスク評価の見直しの議論も、もっとあって然るべきなのではないかと思っています。

 話は変わりますが、このリスク回避のためのコストを「誰が払っているのか、誰が払うべきなのか」についての議論も、逆の「リスクの偏在・分配」の問題と併せて重要なポイントです。

 人が、自動車の運転のリスクを受容できる一つの理由は、これに保険が適用されていることであると思います。一方で、たとえ交通事故よりも発生頻度が低く、自動車の運転よりもリスクの小さいものであっても、それが「起こったとき」に自らの生活が破綻させられるような可能性を孕むものは受容できないと結論づけられるのは、合理的であるように思われます。

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 他にも、本書にはもっと考えたいと思ったり、強く同意し頷いたりした点がたくさんありました。リスクの判断、具体的にはリスク回避の是非や方法選択の問題をもっと知って、「もっと前に進みたい」と思える本でした。

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