「リスク」概念に関するメモ

 先日ここに書いた「リスク対策の難しさ」に関連して、ウェブ上の参考資料をいくつか紹介します。私自身用のメモを兼ねています。

 まずは、工学院大学林真理氏の『科学論から見た「リスク」概念』から。

 これによると、リスク論はリスクを定量可能(*)なものとして扱うことで発展してきたが、定量的なリスク評価には限界があるとされるようになり、リスクの質が議論されるようになったと記されています。

 (*)リスクは「ある有害な原因(障害)によって損失を伴う危険な状態が発生するときの、[損失]×[その損失の発生する確率]の総和」として定量化できると、日本リスク研究学会により示されているそうです。

 リスクの質が問われた結果、これが分類されるようになりました。「2.リスクの分類学」の項では、リスクを扱うときに危険が発生するときの[損失]の程度や[損失の発生確率]だけでなく、次のことに注意が払われるべきであることが指摘されています。

・「事故」は確率が低いとしても、高度に発達した科学技術社会においては起こるものであると扱うこと
・「リスクの分配」の問題- 社会全体としてのリスク・ベネフィットの比較のみを議論の対象にすると、リスクを社会の中の誰かに押しつけることが正当化されかねないという問題


 私は“分配の不公正”というと、現在は社会の中におけるリスクの偏在が問題であると考えていますが、それは違う話のようですのでここでは省きます。

 また、この記事では「リスクコミュニケーションの注意点」について以下の言及がなされています。

 社会におけるリスク情報の活用に際しては、その情報の伝達(リスクコミュニケーション)の過程を踏むことになるが、そこでは以下のことに関して「正しい」認識が要求される。
 ・伝えられる情報が事実として間違っていないこと
 ・リスクを計量可能でベネフィットと相殺可能なものとして扱うこと
 ・相対的なリスク比較に基づいて合理的な行動がとられるという態度


 これは、先日ここで紹介した「リスク対策の難しさ」とも密接に関わる内容であると思います。

 また、この記事「3.リスクと社会」中の次の文章は、リスクコミュニケーションを論じる上で重要なポイントであると思います。

 (専門家が無知で不合理であるとみなす)科学の素人の行動の中に、専門家と異なる価値観を見いだすことができる場合があるとも考えられる。(この場合、専門家は)非専門家の価値観に立った上で、それに基づいて必要な情報を提供するということが大事であるということになる。あるいは、専門家が自分たちの立場から適切であると考える情報を提供することは、専門家自身の立場も同時に押しつけることにつながるとも言える。そういったお互いの立場を知るところから始まるのが、本来のあるべきコミュニケーションであると言える。

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 上の記事中に出てくる「予防原則」については、黒木玄氏の「中西準子の環境リスク論」(2001年4月)の中でも記されています。
 この記事では『リスクとハザードの区別』を「ハザード=その物質の毒性の強さ、リスク=その物質の人の健康に対する危険度」とした上で、「リスク論」と対峙する考え方としての「予防原則」を紹介しています。

 予防原則 (precautionary principle) とは… 「リスクを正確に評価できなくても、ある物質の使用が原因で重大で不可逆な被害が生じる可能性がある場合には、その物質の使用をできる限り回避するべきだ」という考え方のこと…
 最も極端な場合には「疑わしい物質は全て使用を禁止するべきだ」という主張に化けてしまう。
(『予防原則とリスク論』より)

 結局、「あるハザードを予防するか否か」は本質的には、「そのハザード自体により引き起こされるリスクと、そのハザードを予防した場合に生じる新たなリスクとの比較し、考慮した上で決まる」ということなのだと思います。しかし、先日ここにも書いたように(→リスク対策の難しさ)、ここでリスクの程度を比較するのは容易でないことが少なくないので、それを実際的に解決するための議論が様々な形でなされているようです。