米国とイスラム‐今、寛容を取り戻すとき

ここまで来ると、「類型化」も
議論の余地なく呆れるばかりです。

同時多発テロから9年になる
昨日、2010年9月11日に合わせ、
イスラム教の聖典コーラン」を著しく
傷つけんとする宣言を出した団体がありましたね。

このような事例こそが、私が避けるべきと考える
「類型化」
が最も極端に出た例であり、
非難されるべき行動かと思います。

2001年9月11日に米国で起こったテロが
イスラム教徒の過激派の犯行だったからという理由で、
イスラム教徒全体を傷つける行動を取ることは、
断固として許されることではありません。


また、米国では選挙の前にこのような
“馬鹿げた”ことが起こるのが常でもありますが、
このような身勝手な行動は、やはり決して
許されることではないでしょう。

ニュースに上がっている計画をぶちあげたのは、
米国・フロリダ州ゲーンズビルにある
小さなキリスト教会であるそうです。
彼らもまた、“過激”にすぎないのだと思います。


“他者”を否定し、排除しようとする行動は
決して許されるものではありません。
加えて、出来合いの言葉ではありますが、
暴力は暴力を招き、
憎悪は憎悪を招くにすぎないことを
彼らは理解すべきです。


イスラム側からの声明の中には、次のような言葉を添え、
イスラム教徒に過度に反応しないよう
自重を求めるものもあったそうです。

「こんな馬鹿げた呼びかけは
 イスラムをまったく傷つけない」

声明で相手の“属する”社会を類型化せず、
感情を飲み込んで自らの仲間に自制を求めた、
価値ある声明であると思います。


2010年9月10日の朝日新聞1面の『天声人語』には、
次のような言葉も紹介されていました。

「書物が焼かれる所では、ついには
 人間も焼き払われる」(ドイツの詩人・ハイネ)

「社会が自由や寛容を失ったら、それこそ
 テロリストを勝利させることになる」
 (ニューヨーク大学・教授)


同日の朝日新聞の社説には、
米国の初代大統領ワシントンの
次の言葉も紹介されていました。

「米国は偏狭な価値観を認めず、
 迫害を助長することもない」

この言葉に反して、米国における反イスラムの動きは、
今に始まったことではなく起こっていました。
今、改めて米国社会は、
異なる文化を受け入れる寛容と度量を持つ伝統を
取り戻すことが求められるでしょう。