ザイディ記者の行動に感じること

 相手に意見を伝えるには、力ではなく言葉(話し合い)を使わなくてはいけません。ましてや、記者ともなればなおさらです。
 しかし同時に、このニュース、今回の事件は、権力者の行動の“巻き添え”となった市民の意思が、言葉では決して伝えられなかった現実を浮き彫りにしているように思います。軍事大国の行動で、家族を、故郷の町を壊された人たちは、どこに怒りのやり場を求めれば良かったのでしょう。

 ザイディ記者は、アメリカ軍の攻撃で家族を殺された人の一人だったそうです。

 権力なり腕力なり、何であれ、自分の持てる力・使える力を行使するとき。そんなときは、行使したときの影響がどこまで及ぶかを考えることが、非常に大切だと思います。ただ、それはとても大変なことだとも思います。
 今日(12月22日)の読売朝刊1面「編集手帳」にも、この事件についての記述がありました。そして、このコラムはこのように締められていました。

 「アラブ社会で最大の侮辱とされる行為に大統領は靴のサイズに言及する余裕を見せたが、機転の利いた冗談よりも、もっと別の言葉を聞きたかった。」

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