重い「環境学におけるデータの不充分性と意思決定」の問題

 今日、この@sivad氏のツイートが私の目を引きました。

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 『どうかみなさん、「データがないから何もしない」ということは、科学の悪のイデオロギーとしてとらえてください。』 / “環境の世紀VIII-環境学におけるデータの不充分性と意思決定(松原望)-”(→twitter
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 私はこれをリツイートしましたが、ここでもこの記事を紹介したいと思います。

環境学におけるデータの不充分性と意思決定松原望氏@東京大学・環境の世紀、2001年6月8日)

 私はまずこの内容が、「理科系の学問知識」を使って「社会問題の解決に貢献するために」「統計学の勉強を始め」た方の講義のものであることに強く惹かれました。そういう進み方もあるのだと。
 そして、講義ではハンセン病に関わる国家の責任の問題、次いで水俣病が示した問題が取り上げられています。主題となっているのは、次の内容です。

 「十分なデータがない場合、国家(の判断)が間違っているという決定的な証拠がない」ということになる(なってしまう)。しかし、「人の命が関わっているとき(例えば、環境リスクの問題)に、“科学的なデータがないから何もできません”という論理が通用するのでしょうか」

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 これは、どのようなデータや根拠に基づいて“何か(対策)をする”ことの重要性に加えて、政策として“何もできない・しない”という判断の妥当性を問い直すものだと思います。記事中には、「データがなくても、どのような論争が起こっているかを見て、解決策を示さなければなりません。」という言葉も残されています。

 重い、そして大事な問題だと思います。



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