森に飽きても竹藪があるさ@茨城県南(風土史とともに)

 小さな林は暖かい時季だと、人目を気にしない気にせず自由な生き物観察に良い場所です(蚊や切れやすい植物の葉や刺には注意)。が、虫たちがぐっと減る晩秋初冬は、森だと小さい人たちが物足りなく感じるかもしれません。
 そんな中で今季は、森に代わる竹藪の面白さを見つけました。

 
最近行った中での一番は、龍ヶ崎・半田の満願寺うちの8歳の人たってのリクエストで、小さな城址としての遺構を見ようということで行ってみました。着いてみるとすぐに聞こえたのは、風に揺れる木の葉の音の代わりに、竹の幹どうしがぶつかり合って鳴るカロンポロンという音。

f:id:umerunner:20210106000400j:plain

 これぞ竹という音に包まれる場所が待っていました。昔から多くの人が、竹を材料にして遊び道具を楽しんだわけも実感する空間でした。
 人の見当たらないお寺でしたが境内にお邪魔すると、端には登城山城の遺構。見応えのある堀の構造がよく残っています。

f:id:umerunner:20210106000444j:plain

 ここの “城“ に砦として機能したような合戦の記録はなく、元は室町時代以前の土地の豪族の居館であったと考えられているとのこと(『茨城の城郭』より)。稲敷台地から南東に突き出す舌状台地の先端にあり、風土史的には取手~守谷の川周りと同様に、利根川側の低地が当時は内海で水上交通を監視する位置にあったということのようです。



 地方の有力者の居館跡が寺社になっている例は、調べてみると他にも多々あります。町の作りまで含めて楽しめる例としては、足利氏館の鑁阿(ばんな)寺など。

 そして、小さな城址が竹藪になっていることも、これまた多いんですよね。

 ↑ あ、このときも小さな城址に筍を見つけていたのでした。

 
そんな城址の竹藪は、龍ヶ崎の隣の牛久にも。

f:id:umerunner:20210106001934j:plain
 牛久沼の東岸、「河童の小径」にほど近い牛久城址の高台も竹藪でした。

f:id:umerunner:20210106002131j:plain

 竹を揺らすと、中に溜まった水の動く音がすると聞いて試してみたところ、残念なことにそれは叶わず、このときは葉の擦れ合う音がするばかりでしたが。

f:id:umerunner:20210106002157j:plain
 竹に囲まれた道を抜けると、曲輪跡の広場に出て城址の説明が突然現れました。その説明によると、小田原の北条氏が常陸の佐竹氏と勢力争いをした最前線がこの牛久だったのだそうです。
 なお、その最前線に立ったのは岡見氏。「岡見」といえば今も、牛久市の東部に地名として残っているそれですね。

 今の牛久沼周辺は当時全体が低湿地で、主要な交通手段は水上でしたが、牛久から沼を挟んでつくば側の岸に佐竹氏によって拠点を築かれ、岡見氏は勢力範囲を寸断されてしまいます。そしてその苦難の甲斐もなく、戦国時代末期の北条氏の滅亡とともに没落したのだそうです。

f:id:umerunner:20210106002540j:plain
 その拠点が築かれた場所(泊崎)を、今も「対岸」の住宅地として確認することができます。写真では対岸のうち、森が切れてやや低く見えているのがそこです。
 この「泊崎」は牛久沼に流れる2本の広い川に挟まれた半島状の先にあり、水上交通のない現代では、直線距離にして 3km余りの JRの駅(藤代)に行くにも遠回りになってしまう場所のようです。時代や地形の変化が変える人の流れに想いを馳せるのもまた一興という土地です(実際に川で行く手を遮られている人は、たまったものではないと思いそうな地形ですが)。


 さて、牛久城から 1.5kmほど北西には、前述の北条・佐竹両勢力がぶつかったさらなる前線基地といわれる東林寺城址も。こちらも今は寺社、そして竹が茂っていました。

f:id:umerunner:20210106003150j:plain

f:id:umerunner:20210106004808j:plain

 行って見たのが11月末だったので、最終盤の紅葉もきれいでした。

f:id:umerunner:20210106004843j:plain

 もうすぐ梅の花の時季。もう少し社会状況が落ち着くことを願うばかりです。