白壁の通りだけじゃない! 岡山・倉敷で産業・労働・まちづくりの礎を見る

 1ヶ月ちょっと前ですが、虹を見ながら羽田を離陸した飛行機で行ったのは倉敷。今まで、岡山に来ても倉敷に来る機会がなかなか無かったのですが今回行けた街。とても良いところでした。



 ↑ 夕方の江ノ島~伊豆半島。↓ 向こうに駿河湾、手前に富士山。

 倉敷の位置は、岡山のすぐ横(JRで4駅、所要17分)。そんな場所にありながらそこ自体は大開発されず、石壁の連なる町並みが残されている所は、他にないのではないでしょうか!?


 その土地は古くは海の下。大阪の堺が海岸線だった時代(古墳時代)に今の岡山〜倉敷のエリアは、完全に瀬戸内海の中でした。10〜14世紀に、高梁川からの土砂堆積と瀬戸内海の隆起で干拓地が形成されます。その場所は中国・四国地方の玄関口であったため、江戸時代には幕府の直轄地とされ(倉敷代官)、備中、美作、讃岐を治める中心都市となりました。そのために幕末には、倉敷代官が長州出身者に襲撃されて焼き野原にされたそうですが(1866年)


 倉敷を歩いていると、伝統的建造物の景観だけでなく「(一輪の綿花から始まった)繊維のまち」というフレーズが目に留まります。これは、今の「クラボウ」に繋がる紡績所が明治期に創業したことに由来します。

 これは、江戸時代後期から干拓による新田開発と金融で財を成した一族の大橋澤三郎が、小松原慶太郎、木村利太郎とともに、大原孝四郎を初代社長として創業した倉敷紡績所のこと。紡績所の工場は、薩摩(鹿児島紡績)との交流で設計され、英国の技術も取り入れて、そこで働きたいという伝習生(実習生)の志願も受け付けながら明治21年(1888年)に稼働を始めます。


 「三馬(みつうま)」の登録商標。当時主要な輸出先だった中国で縁起がいいと喜ばれる題材だったそうです。

 若いうちに亡くなった大原孝四郎の跡を継いで社長を務めたのは大原孫三郎。この人は26~59才のとき(1906~39年、1943年に逝去)に社を率いる中で、吉備紡績所を買収して倉紡玉島工場とするなど事業を拡大するとともに、従業員本位の労務管理や人材育成に努めたことで有名です。

  • 従業員が家族で住みやすいようにと、当時珍しい「分散寄宿舎」(数百人が一堂に寝泊まりする大部屋でなく、家族ごとに分かれて住める)の設置
  • 労働環境研究所を開き、労働・環境と健康との関係を科学的に分析して疾病を予防・早期に対応
  • 工場敷地内に尋常小学校を設置
  • 工手学校も開設
  • 他にも孤児院援助から、大原社会問題研究所に倉紡中央病院も開設。などなど・・・

 時代は1880年代からの足尾鉱毒事件などがあった頃で、八幡製鉄所では海の汚染が問題になった時代。しかし、教科書にもよく取り上げられた四日市ぜんそくや水俣病のような公害が生じた戦後よりまだだいぶ前の話です。この大正~昭和初期の時代に、従業員の労働・住環境や健康管理をに先進的に取り組んだその内容の多さに驚かされます。


 ↑ 職業病に対処すべく研究を依頼した手紙。大原孫三郎の先進性を表すものの一つと言えるでしょう。

 他にも、今の岡山大学資源植物科学研究所(岡山の桃、梨、葡萄の品種改良がここかららしいです)も開設。その中で、第一次世界大戦の長期化で激増した綿製品の需要に応えるなど。戦後の不況時には事業整理も断行し、そこで立ち上げた絹織事業が今のクラレであるとか。1970年の大阪万博後の時代には化学繊維の活用にもシフトしながら、非繊維商品の化成品分野へも進出したとか。産業を単なる遺跡とせずに、今も重要な拠点となるに至った歴史は一見の価値ありです。


 「玉磨かざれば器とならず、人学ばされば道を知らず」は、戦後の第4代社長大原總一郎氏の言葉。

 帰りに倉敷駅の北側を通ったときには、自動車教習所も「クラボウドライビングスクール」とその会社の名前を冠しているのを見つけました。クラボウおそるべし。

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 第2代社長であった大原孫三郎氏は文化振興にも財と投じ、画家の児島虎次郎を欧州留学に派遣。それだけでなく、西洋絵画や古代エジプト~西アジア(中東)の美術品を誰でも見られるようにと、児島と共に大原美術館を開きました。アジアの人に人気なのか、私が行ったときには韓国と台湾からの人がたくさん来ていました。

 児島虎次郎が現地で集めた作品は数多く。ポール・シニャックの点描『オーヴェルシーの運河』や、クロード・モネ『睡蓮』など。どちらも1906年の作品で、バルセロナのガウディとも近い時代ですね。


 その大原孫三郎と児島虎次郎が、「埃及・波斯及土耳古(エジプト、ペルシャ、トルコ)古陶器展覧会」を学校(倉敷尋常高等小学校)で開催したのが1923年。エジプトの古都フスタート〜ルクソールの、中国青磁と違うアルカリ釉+銅から成る青色とか、メソポタミア(今のシリアのラッカ〜イラクのバスラ=ホルムズ海峡の奥=に位置)の工芸品とか。見れば古い文明を持つこの地域がどんな所なんだろうと驚き、関心を抱かせるものばかりです。
 なお、大原孫三郎が初代頭取を務めた中国銀行の建物は、今も伝統的建造物ながら美術品の展示室として公開されています。これまたおそるべし。

 文脈からはそれますが、将棋の十五世名人・大山康晴氏がこの地の出身で、大山名人記念館もここにあります。


 そこの和室は普段、将棋の道場にもなっているそうです。

 そんな倉敷。歩いて回れるエリアにこんなにも色々あり素晴らしい場所でした。しかし、そんな「美観地区を支える美術館も、当時は誰にも理解されなかった」とも。そんな「まちづくりの成果は50年、100年先にわかる」ことも含めてとても深みのある町。まだ行ったことのない人にも、機会をつくって是非訪れていただきたい所です。