2024年、日本国内の小中高生の自殺者数が過去最多(527人、速報値)であったというニュースが、2025年1月末にありました。この数字は、警察庁の統計に基づいて厚生労働省が発表したものということです。
子ども全体の人口が減っているにも関わらず、この不幸な数字は2022年の514人、2023年の513人から14人増加。全世代で見るとこの数は年間2万人余りで減少傾向にある中で、小中高生の自殺の数というのが年間3%ほど増えてしまった、というのが昨年の状況です。
その報道では、最近活用が進んでいる学習用のタブレット端末などで、子どもの特に人間関係やメンタルの異変の察知を進められないか、ということも言われると共に、SNSとの関連はという問題提起もなされています。今の社会環境の中で、大人が子どもにすごく小さい頃からタブレットやスマホの画面を見せたりとか(それで何を見せているのかというのは人それぞれだとは思いますが)、2020年春からのコロナ禍の中で小学生以上の子供たちがタブレットやパソコンなどの端末を活用する機会が増えたりしたということが、そのような端末への小さい人たちのアクセスを確実に増やしました。その中で、SNSにその小中高生も触れやすくなったことの影響はどうなのでしょうという問題のことですね。
そのような話を見聞きするときに、私には一つ気になることがあります。このような議論では、いつも子どもたちからSNSをどう遠ざけるかという話になりますが、大人が最低限認識しなくてはいけないのは、ネットにしろSNSにしろ、それらはすでにあるものだということ。もっと言うとそれらが、彼らの普段いる生活のすぐ横に、すでに確実にあるものだということだと思うのです。
この問題が取り上げられると、若年者のSNSの使用は規制した方がいいんじゃないかといったことがいつも話題に挙がりますが、果たしてそれはどうなのでしょうか。ただ規制する、遠ざけることが良い効果をもたらすでしょうか? SNSに限らずYouTube動画など視聴できるものについても、規制するかしないかという ”議論” はあっていいと思うのですが、これだけ社会に浸透しアクセスしやすいものを、果たしてどう規制しよう、遠ざけようと言うのでしょうか。とにかく、今回で言うとSNSのように問題になり得るものがすでに社会に浸透しているものだということは、大前提としないと対策も何もないでしょうと思うのです。
それで、SNSに限らずタブレットやスマホなどをどう子どもたちが使うのか。それらを使うのに費やす時間を指して「スクリーンタイム」と呼んで、それが増えすぎていることが問題なんじゃないかという問題もよく言われると思いますが、ここでもやはり一つ気になることがあるのです。それは、子どもでなく「大人はそれをどう使っているのか」ということです。
コロナ禍のときはうちも長男が小学3年生で、私がリモートで仕事をするのも、長男は隣で多少なりそれを見ていただろうと思います。大人である私が「スマホやパソコンを使って何をしているのか」ということを。もっとも、私はコロナ禍でなくても自宅でパソコンで何かを作ったり書いたりすることはあるのですが、コロナ禍のときにそれを見せる機会というのは、自然に増えてはいたと思うんですね。
で、それらタブレットやスマートフォンといった端末を使うのに費やす時間 ”スクリーンタイム” と言われるもので私が何をしているのか、人は何をできるのか。子どもがそれを活用する姿というのは、周りの大人の写し鏡だと思うんですね。先述のとおり、活用できるそれらは現に社会に存在し、すでに活用されているものだというのが現実なわけです。それをどうやって、どのように使うことができるのか?
スクリーンタイムでできることは消費でなく、価値の創造なんですよね。
そのことをまずは大人が教えるとともに、いわゆる背中で示す=実践できているかということ。問題はそちら側だと思うのです。もちろん、それらをどう使うかは自由であっていいのですが、良い活用の仕方があるよ、こんなにうまく使うとその先にいろんな可能性が広がっているんだよということを示せているか? 「スクリーンタイム」と時間を気にする人は、果たしてその「どう使っていますか」ということを果たして問えているでしょうか。周りの大人が、子どもにそれらの良い使い方をサポートできるような、そんな問いかけを子どもに、周りの大人はできているのか? 問題はそちらだと私は考えています。
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この懸念は、教育分野での研究者に私がこの問い掛けをしたときに、「そんな幼児期からタブレットを与える必要はないと思います」 という声を聞いたり、スクリーンタイムをただ分析した研究が評価されたりすることがあるたびに感じます。
もっと言えば、タブレットやスマートフォン、パソコンを使えば自分で様々な情報にアクセスし、情報を深く掘ることもできる。これって、図鑑や百科事典を見ることとどう違うのでしょうか。図鑑や百科事典が隣にあっても見なかった人もいるとは思います。一方で、それらに興味を持って見る人もいるでしょう。インターネットにもそれに匹敵するような情報があって、それをうまく活用できる人もいればしない人もいる。そう考えると、スマートフォンやタブレットの使用で問題になるのは、それで消費する時間「スクリーンタイム」でなく、使い方の問題なのではないでしょうか。
インターネットを使うことは、そこから情報をどう取ってどう使うかということを判断する機会にもなります。それが、自分で新しい情報を集めて、自分で整理してという試行錯誤を始めることにもなるわけです。新しく得た情報が小さい人自身の好奇心や発想を膨らませ、スクリーンの外のリアルワールドでの新しい行動や挑戦につながることだってあるでしょう。
SNSの方も、人との会話、交流を直接会わなくても続けられるツールに、もうすでになっているわけです。インターネットが便利に使えるようになって、それに接続する端末も身近に使えるようになって、いろんな情報にアクセスしたり、SNSで色々なコミュニケーションの取り方もできるようになった今、それをただ使うなと小さい人たち、若い人たちに言うことが問題の解決に果たしてなるのでしょうか。
もちろん私も目にしています。SNSのうち、例えばX(旧Twitter)を使っていると、全く知らない人からいかがわしい情報が流れてくるとか、メタ社のFacebookにしても、すごく紛らわしい画像の広告が表示(今まさに、この記事へのリンクを貼ろうとしている今もそのアカン広告が出ています)されてクリックすると問題が発生するとか。でもそういったリスクがあることも含めて、それをどうやって使うのかということを大人もアップデートしていき、子どもたちにもただ使うなというのではなく、どう使ったらいいんだろうかということを見せながら一緒に考えることが大事だと思うのです。とにかく、子どもたちがそういったものを使う、触れる、目にする、時間を減らせばいいというものではないと。
つまり、大人の方もそれらの使い方をアップデートする必要がある。 それをアップデートすることなしに、子どもたちにただ使うな、使う機会を制限しようということだけを啓発したとして、時代遅れの若い人たちを作って、それがどういう結果になるでしょうか。大人たちが時代遅れになることは、それはもう自己責任ですが、それが子どもたちを時代遅れにすることを助長し、促すことになってはいけないとも思います。
もちろん、SNSもインターネットも万能でも、完璧でもありません。しかし、すでに便利なものとして使われているという現実が社会にあるわけです。それを子どもたちにただ見せないというのでなく、そういったものが「ある」のが事実なのだという前提に立って、それらを大人たちが実際にどう使うか、良い使い方というものを子どもたちにどう見せることができるのか。どういう問題が同時にあってどんなことに気をつけないといけないんだよねということを、どう共有していけるのか。そういったことこそが大事なのではないかと、SNSの問題がやはりあるのではないかという今回(先月末)の報道を見て改めて気になったので、今日はザっとその考えを書き起こしてみました。
大人たち、いま手元で自分がうまく使えないものを、ただ怖い、子どもたちに見せないということがないように。どうしたらうまく使えるのか、どうしたらもっと有意義にそれらを活用できるだろうかという「使い方」の方をアップデートしましょう。そして、次の世代の人たちが次の時代にハッピーに生きられる力を付けること、それを大人たちが妨げることがないよう、できればサポートできるように。そんなことを大人たちが少しでも考えられるといいんではないかと思いますが、皆さんいかがでしょうか。
スマホやタブレットは時間を「消費」するものでなく、何かを「生み出せる」=価値を「生産」できるものだと示していきたいものです。