今月、2025年6月はその初旬に、弾丸日帰りでの宮崎に仕事で行く機会がありました。首都圏は涼しかった週末に宮崎は晴れで暖かかった日で、南国風情を感じる宮崎でした。
宮崎には3年前の桜の時季と今年の1月にも来ていたのですが、どちらもまだ涼しい(山の方の高千穂は寒い!)季節だったので、「南国・宮崎」を感じたのは今月の機会が初めてだったように思います。
2014年からこの花「ブーゲンビリア」の名前を冠している宮崎空港。
この宮崎、マンゴーや夏みかんに地鶏など、いろいろ美味しい食材は思い浮かぶのですが、一番の中心のはずの宮崎駅前も普通の日曜だと観光客が全然いないことにまず驚きました。県内には他に、大きな石垣がある延岡だったり、南にはリゾートの日南があったりで、必ずしも県庁所在地である「宮崎市」が観光の中心ではないのかもしれません。ですが、それにしてもねぇ良い所なのにと思ったのも事実です。
例えば、同じ九州でも熊本だったら「戦国武将・加藤清正」で有名な熊本城があり、いつだって観光客がいます。もちろん、どこも同じように賑わうべきとは思いませんが、宮崎は何が違うんでしょう。素人目線ですが熊本には安土桃山時代以来の城があり、新幹線もある。この2つは大きいのでしょうか。
新幹線のない宮崎には、これからも特急王国であってもらいたいものだと思います。
しかしこの宮崎市には何で、熊本、福岡、大分、鹿児島のような城郭がないんですかね。宮崎県で立派な城郭というと、県北、大分の方に近い延岡にあるわけです。一方で、宮崎市郊外の昔の中心は、今の宮崎市街でなく少し北の佐土原にありました。一方の日南も、この「日南」という地名は比較的新しく、昔の拠点としての町の名前は「飫肥(おび)」でした。飫肥城という江戸時代に整備された城が、宮崎県内唯一の「日本100名城」とされている他、木材としての「飫肥杉」なんかが今もあったりします。ですがとにかく、これらは宮崎市のものではないんですね。
それではこの宮崎県、昔の日向国の今の中心はなんで宮崎市になったのでしょうか? 立派な城郭だったら県北、大分の方に近い延岡にあったはずなんですよね。ではなぜ、宮崎市が今の宮崎県の中心なのか? それは、北の美々津と南の都城をまとめて一つの県としたときに、双方からのアクセスが良い場所に新しい県都をつくる必要があったからなのだそう。それまではむしろ地域の境界だった大淀川沿いが、美々津と都城の2県が合わさったときにこの地域の中心となったんだそうです。
ここを県都とした理由のもう1つは、そもそもこの大淀川の三角州(平野)が広かったということもあるのでしょう。一方の延岡には五十鈴川という、伊勢にあるのと同じ名前の川沿いに平野があります。五十鈴川の名前は、これが伊勢と同じく信仰の地である高千穂から流れてくるのと縁があるのでしょう。ですが、川の三角州の広さでいうと、地図で見る限りでは延岡の方をの平野よりも宮崎市の大淀川の平野の方が広く、大きな街をこちらの方に作りやすかったのだろうと思われます。
そんな宮崎の市内に何があるのかと歩いてみたら、宮崎駅のほど近い場所に古くからあるという宮崎神宮に行き着きました。
この宮崎神宮、行ってみて驚いたのですが初代の天皇である神武天皇をお祀りしたものなんですね。天照大神(あまてらすおおみかみ)からは五代目にあたる神武天皇が初めにこの日向国=宮崎でまつりごとをとられましたが、当時はまだ日本という国の形がない頃の時代。「天下万民が幸せに暮らせるよう」神武天皇がここから東遷=東に移り、大阪を目指します。しかし当時の大阪(浪速)が神武天皇を拒否したので、南に回って紀伊半島の熊野から大和=今の奈良県=に入り、畝傍の橿原に拠点を築いたと。それが大和朝廷、奈良時代、そして今の日本に繋がっていると、そんな言い伝えの始まりにあたり、信仰のある場所としても大切なのがこの宮崎であるわけです。神宮の略記では、社殿が造営されたのも「第10, 12代」の「崇神天皇」「景行天皇」のときからという、すごい時代の話が出てきます。
そんなわけで、宮崎神宮には皇族との縁を表す菊紋(十六葉八重表菊)が見られます。
この宮崎神宮は、伊勢神宮などと比べると知名度は高くないと思いますが、九州の南部、しかも新幹線の通っていない東側にもこういった、日本の歴史を知るのに大切な場所があるんですね。県内には他にも、日本の古い歴史を伝える高千穂はもちろん、あとは南部に都城という町があったりもします。この都城も面白い町で、畜産が盛んなことから農業産出額の出荷額が市町村単位でみると全国1位だったりと、そんな町もこの地域にはあります。
というわけで、私の訪問も今回は仕事でのとんぼ返りでしたが、またゆっくり来たいところだなとも思っているところです。
●宮崎―歴史背景の希薄な県庁所在地、昭和以降に急速に発展した南国リゾート都市(まちあるきの考古学HP)